園田茂人「不平等国家中国」:自己否定した社会主義のゆくえ

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園田茂人の著作「不平等国家中国」(中公新書)は現代の中国社会を、データに基づいて実証的に分析している。その結果園田が得た印象は、ずばりタイトルにある通り、不平等が拡大する国が中国だということだ。中国といえば、普通には「社会主義国家」とイメージされており、社会主義国家とは不平等の解消をなによりも優先する社会だと思われてきたから、その社会主義を国是とする中国で、格差が拡大し、その結果不平等国家となってしまったのは、なんとも皮肉なことである、というのが園田の率直な感想であるようだ。中国がそんな国になってしまったのは、副題にもあるとおり、社会主義を自己否定したためだ。社会主義を自己否定して、資本の原理を導入したために、しかもその導入が中途半端だったために、副作用も大きかった。その副作用が、格差が拡大する不平等国家中国をもたらした、と園田は考えているようである。

園田は、大方の「中国通」とは異なり、中国が社会主義を徹底的に否定して資本の原理を全面的にとりいれるべきだとは考えていないようだ。大方の「中国通」は、現代の中国が抱えている問題は、古い社会主義のシステムを温存し、そのため中途半端な資本主義に甘んじているせいだとし、それを出来損ないの資本主義と呼んでいる。出来損ないの資本主義に甘んじていては、社会の健全な発展は期待できない。社会を健全な方向に発展させるためには、社会主義的な要素を壊滅させ、資本の論理を徹底的に導入せねばならない、と主張する。ところが園田は、社会主義には資本の解決できないようなことを解決する能力もあるのであり、そうした能力を一概に否定する必要はないと考えている。それゆえ、園田のスタンスは、社会主義的な伝統のよさを残しながら、市場開放など資本主義的なシステムを接ぎ木すれば良い結果を得られるだろうというものである。

この本は、毛沢東時代における社会主義建設とそれが中国人の生活基盤にもたらした影響を踏まえながら、1980年代以降における改革開放政策の結果中国社会に起きた大きな変化を跡付けている。その変化を簡単に言えば、資本主義的原理の浸透と、格差と不平等の拡大ということになる。つまり園田は、毛沢東時代の中国が、社会主義的な原理に基づいて一定の平等を実現したとしたうえで、改革開放政策がその平等を掘り崩し、中国を格差と不平等の国に導いたと考えているわけである。

現代中国の抱えている格差を園田は、収入格差、学歴による格差、都市と農村の格差といった具合に、いくつかの面から分析している。そしてそうした格差の背景には、市場経済化(資本主義化)の進行があり、その結果階級の意義が後退した。中国共産党はもはや労働者・農民の党ではなく、中国人民全体を代表するとされる。階級政党であることをやめて、国民政党を標榜するようになったわけだ。そして、その中国共産党が、いまの中国では支配的な位置を占めている。言ってみれば、中国共産党が国家社会の支配階級を形成し、それが一般の中国人を支配するという図式ができあがった。そんなふうに園田は考えているようである。

そうした考えは、どうやら事実によって裏付けられるようだ。中国はいったんは、改革開放の流れにそって膨大な私企業群を生み出し、その私企業が中国経済を活性化させたという時期があったものの、近年は国有企業のウェイトがますます高まってきており、その国有企業を実質上共産党の官僚が運営していることから、共産党テクノクラートの社会的な地位が著しく高まってきているという。そうした共産党のテクノクラートを、一般の中国人はかならずしも否定的には見ていない。かえって、かれらの能力を高く評価し、信頼を寄せてさえいる。中国人は伝統的にお上を信頼する気風があり、そこから士大夫文化が生まれたという歴史的な事情がある。中国には、そうした伝統が復活する兆しがある、と園田は見るのである。中国人は、身近な地方官僚には不信感を持つが、中央政府に対しては信頼感のほうが強いというのである。

こうしてみると、中国は、改革開放を経て、西欧的な市場システムへと変化していくのではなく、中国伝統の官僚主義的なシステムへと復古していく可能性が高いと、園田は考えているようである。そしてそれを必ずしも悪い傾向とは見ていない。中国通を含めた西側の中国論には、中国の資本主義化によって従来の階級概念にはあてはまらない中間層が多数派をしめるようになれば、その中間層が国家・社会の民主化の担い手になるだろうとする見方が有力だが、園田は、そういう見方には否定的だ。中国に中間層が生まれたのは事実だが、その中間層は、基本的には共産党による統治を拒否していない。かえって、共産党のテクノクラートに信頼を寄せている。そう園田は言うのである。

近年中国では「和階社会」ということばが盛んに発せられている。習近平も好んで使う言葉だ。それは耳に心地よく響く言葉ではあるが、実際には、中国社会が事実上深刻な分断にさらされているという危機感を逆説的に表した言葉でもある。そのように園田は解釈しているが、その通りだと思う。






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