虐げられた少女ネリー:ドストエフスキー「虐げられた人々」

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小説「虐げられた人々」は、犬を連れた老人の野垂れ死の場面から始まり、その老人の孫娘ネリーの死で終わる。しかもネリーと老人をめぐっては、それ自体にドラマ性が潜んでいるので、かれらの存在がこの小説の枠組をなしているともいえる。だが、小説のメーンプロットは、あくまでもワルコフスキーとイフメーネフの対立であり、その延長としてのアリョーシャとナターシャの愛の破綻であって、ネリーをめぐる物語はあくまでもサブプロットの位置づけである。そのメリーはしかし、語り手とは特別の関係にもあるので、その存在感は、メーンプロットの人物たちに劣らない。

実は小説のタイトルである「虐げられた人々」という言葉にもっとも相応しいのはネリーなのである。彼女こそは、薄幸の少女というくらいでは説明できないほど、徹底的に打ちのめされ、虐げられている少女なのである。この少女をドストエフスキーは癲癇患者として描いている。ドストエフスキー自身が癲癇持ちだったので、自身の一部を彼女に投影したといってよい。それくらいであるから、彼女の存在は小説にとってかなり重い役割を持っているはずなのだが、ドストエフスキーの彼女の描き方は、そっけないといってよいほどである。それは、小説全体がある人物(ワーニャ)の視点から、一人称で語られているからで、その人物がネリーを自分にとって特別の存在として意識していないためである。一方ネリーのほうは、幼心ながら、ワーニャに対して恋愛感情をもっている。彼女が死に急ぐのは、自分のワーニャに対する恋愛感情が実を結ぶ可能性がないことに絶望したからだといえるのである。

そうだとしたら、ネリーは徹底的に報われることのない不幸な少女ということになる。この小説には、他にも不幸な境遇の人が出てくるから、不幸のオンパレードを呈しているといってよい。

ともあれ、ネリーの不幸の淵源はワルコフスキー公爵である。ワルコフスキーは、金目当てにネリーの母親をかどわかし、その父つまりネリーの祖父から金を奪って破産させた。その挙句にネリーの母親を捨てたのである。要するにワルコフスキーの血も涙もない無慈悲な行いが、ネリーの不幸の淵源なのである。そのワルコフスキーは、ネリーの実の父親なのだが、彼女は母親の言いつけもあって、父親を絶対ゆるさない。死に臨んでの遺言に、実の父親であるワルコフスキーを呪詛する言葉を残したほどだ。娘に呪詛されても、ワルコフスキーが悪びれることはない。こいつは、ネリーが自分の娘だと知っていながら、手を差し伸べるどころか、その不運をせせら笑うのである。

だいたいワルコフスキーが、ネリーたちに近づいたのは、彼ら母子の存在が自分にとって都合が悪いので、なんとか始末をつけたいと思ったからである。そこでワルコフスキーは、マスロボーエフという男を雇って、ネリーたちの動向を探らせる。マスロボーエフはたまたまワーニャと昔なじみの間柄だったので、なにかとワーニャとかかわりあうことになる。そして一時は、ワルコフスキーの悪事を成敗してやろうとも思うのだが、やはり金の誘惑には勝てず、ワルコフスキーの軍門に屈して、ネリーを救い出すまでは到らないのである。

つまりワルコフスキーは、誰に対しても勝利者としてふるまい、決して都合の悪い状態に追い込まれることがないのである。ロシアでは、頭の回転の速いやつが、頭の足りないやつを好きなように扱うのは、自然法則のようなものなのである。自然法則といってはあまりにもえげつないなら、神の摂理といってよい。神は頭の良い人間に栄光をさずけ、頭の足りない人間には忍耐を授けたというわけである。

それにしても、ネリーの描き方は実にあっさりしている。語り手のワーニャの意識を通じて、その視線に映ったものだけを描写するというスタイルをこの小説はとっているので、客観小説のように、登場人物個々の心理状態をことこまかく描写するというわけにはいかないのだ。語り手の注意を惹かなければ、どんな事態も見逃されてしまう。それは一人称というスタイルを選んだ以上避けられないことだ。なにしろワーニャの意識は、ナターシャのほうに集中していて、ネリーのことほとんどほったらかしに近いのである。ワーニャがネリーに注意を向けるようになるのは、彼女の病状が極度に悪化してからで、その時にはすでにネリーの運命は尽きかかっていたのである。ネリーは、たとえわずかでもワーニャの気を惹くことができたら、もっと生きることに前向きになったかもしれない。彼女が死に急いだのは、誰にも愛されないという絶望からである。絶望ほど人を虐げるものはない。ネリーは究極の虐げられた少女なのである。






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