海印三昧:正法眼蔵を読む

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「正法眼蔵」第十三は「海印三昧」の巻。この巻を正しく理解するには「海印三昧」という言葉の意味がきちんとわかっていなければならない。そこで岩波仏教辞典であたると次のような説明がある。「大海がすべての生き物の姿を映し出すように、一切の法を明らかに映し出すことのできるような智慧を得る三昧」。つまり宇宙についての究極的な智慧を得た状態ということになろう。そういう智慧を得た状態は、さとりの状態といえるので、「海印三昧」とはさとりの境地の別名と言えよう。

だから、この巻は「さとり」の境地について説いたものである。さとりの境地については、さまざまな言い方があり、正法眼蔵の中でもそうした様々な言葉でさとりの境地が説かれているのであるが、この「海印三昧」という言葉は、華厳系でよく使われる。華厳経では、「海印三昧」を根本三昧の一として位置づけ、この三昧の力によって一切が相即しあう事事無碍の世界が成り立つとする。事事無碍はまた円融無碍ともいわれ、一切の存在が相即しあう状態を現わしている。

以上のことを頭に置きながらこの巻を読むと、理解が進むのではないか。この巻は次のような言葉から始まる。「諸佛諸祖とあるに、かならず海印三昧なり。この三昧の游泳に、説時あり、證時あり、行時あり」。諸佛諸祖すなわち仏祖たちはかならず海印三昧の境地に達していた。その三昧の境地のなかで、説や証や行がなされるのである。

つまりさとりの境地を大海で遊泳することにたとえているわけだが、ではじっさい、そのさとりの境地とは、具体的なイメージとしては、どのようなものか。それについては、次のような説明がある。「佛言はく、但衆法を以て此身を合成す。起時は唯法の起なり、滅時は唯法の滅なり。此の法の起る時、我起ると言はず。此の法の滅する時、我滅すと言はず。前念後念、念念不相待なり。前法後法、法法不相對なり。是れを即ち名づけて海印三昧とす」。衆法とは諸々の存在という意味、その諸々の存在から私の身ができている、私が起こるとは存在が起るのであり、私が滅するのは存在が滅するのである、存在が起こるのであって私が起こるとは厳密にはいわれない、存在が滅するのであって私が滅するとは厳密にはいわれない、私が起こったり滅したりするとき、わたしに起きる事態の前後には何らの関係もない。つまり現象には連続性などない。

ここで言われていることは、二つに大別できる。一つは、私の存在はそれ自体としてあるのではなく、さまざまな存在の因果のもつれのようなものだということ、二つには、存在のある状態から次の状態への移行には連続性はなく、それぞれが独立した現象だということ、である。後者の考えは、華厳経の主要思想である「刹那滅」の思想を反映したものである。刹那滅の思想とは、現象には連続性はみとめられず、個々の現象それぞれが相互に断絶しているとする思想である。

この刹那滅の思想は、「古佛いはく、起滅不停の時如何」以下の部分で詳しく展開される。「起滅不停の時如何」とは、現象が生じたり滅したりして果てしもなく連続しているように見えるのはどういうわけか、という問いかけである。それに対して、現象が連続的に見えるのは、存在全体の動きが連鎖しているように見えるのであって、私個人が生じたり滅したりするわけではない。私個人は存在の一部に過ぎず、その存在の移り変わりにつれて、自分もまた変化しているように見えるにすぎない。しかも存在はそれぞれ別個のものであり、それら別個のものが前後の関係なく生起するように見えるに過ぎない、といったことが説かれる。

ところで刹那滅は、「前念後念、念念不相待なり。前法後法、法法不相對なり」という言葉で表現されていた。私の考えることの前後には何らの因果関係はなく、存在の様態の前後にも何らの因果関係もないという意味である。世界において生起する現象には、因果関係はない。因果関係のように見えるのは、時間的な前後関係に過ぎない、というのであるが、そういう考えは、たとえばイギリス経験論のヒュームにも見られる考えなので、別に突飛なものではない。

以上、この「海印三昧」の巻は、さとりの境地を華厳経の見地から説いたものと言えるのであるが、道元自身は、華厳経に依拠しているとはいわず、法華経に依拠しているというような言い方をしている。それはおそらく、曹洞宗の法祖(曹山や洞山など)のひそみに倣っているのだろう。かれらは華厳経より法華経を重視していた。道元もまた法華経を重視し、死ぬ間際まで法華経を読んでいたほどだから、自分の思想を法華経に関連付けるのは自然なことだったのであろう。

この巻の後半は、曹洞宗の法祖曹山の言葉にかかわるやりとりである。これは、ある僧の「承るに言へること有り、大海死屍を宿せずと。如何なるか是れ海」という質問から始まる次のようなやりとりである。まず曹山が「包含萬有」と応える。それに対して僧が、それならば「什麼と爲てか死屍を宿せざる」と問い詰める。曹山は、「絶氣者不著」と応える。僧はさらに、「是れ包含萬有、什麼と爲てか絶氣の者不著なる」と重ねて問いつめる。それに対して曹山は、「萬有、その功、絶氣に非ず」と応える、というものである。

僧の問いは単純だ。大海は万有を含むというのに、なぜ死屍を宿さないのか、死屍も万有のうちに含まれるのではないか、という問いである。それに対して曹山は、気の絶えたものは万有には含まれないと答える。万有のとらえ方が異なっているわけである。また大海の意味のとらえ方も異なっている。僧は具体的な海をイメージしているのに対して、曹山は理念的なものとして捉えている。個々の海ではなく、存在の入れものとしての海なのである。その存在の入れものに入るべき存在には、死屍の如きものはない。この場合、死屍という言葉の意味付けが問題である。死屍というと、存在の否定態という意味合いにとらえがちだが、存在には否定的なものはない。だからそんな否定的なものは、そもそも存在とは言えないのだ、という考えがそこには込められている。





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