観音:正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第十八「観音」の巻は、観音菩薩の功徳についての、二人の禅僧の問答を評釈したもの。二人の禅僧とは、雲巖無住大師と道吾山修一大師である。雲巖は曹洞宗の宗祖の一人洞山良价の師であり、道元にとっては直接法統につながる。一方道吾は、薬山惟儼の門下であり、雲巖の兄弟子にあたる。この二人のうち、道元は雲巖のほうを贔屓にしているように読み取れるが、道吾にも敬意を表しており、この二人をともども古仏と呼んでいる。古仏は道元にとって最高の褒め言葉である。

観音菩薩のことを道元は、観世音菩薩とも観自在菩薩とも呼んでいる。観世音菩薩とは「法華経観世音普門品」での呼称であり、「観自在菩薩」のほうは「般若心経」での呼称である。法華経が観音菩薩の功徳を強調しているのに対して、心経のほうは空の思想を展開しているという相違は認められるが、観音菩薩が、大乗の教えであるところの衆生の救済という理念をもっとも強く体現している菩薩だとする点は共通している。道元は、その観音菩薩を、如来に等しいとまで言っている。かれは観音菩薩を、「諸仏の父母とも参学す、諸仏よりも未得道なりと参学することなかれ。過去正法明如来也」というのである。如来でありながら、仮に菩薩の姿となって、衆生を救済するというわけである。

観音の功徳については、法華経、心経を含め古来様々なことが説かれてきたが、雲巖と道吾との間の問答ほど、それを的確にとらえているものはない。だから、「観音を参学せんとおもはば、雲巖道悟のいまの道也を参究すべし」ということになる。道也は言われた言葉、参究は深く考えるという意味。

さて問答は、雲巖の次の言葉から発する。「大悲菩薩、用許多手眼作麼」。これは大悲菩薩すなわち観音菩薩が、「どれほどの数の手眼を用いて何をするというのか」という意味である。これに対して道吾が、「如人夜間背手摸枕子」と応じる。「夜間に人が手を背中のほうに伸ばして枕を探るようなものだ」という意味である。手眼というのは、観音菩薩の姿のイメージをあらわず「千手千眼」を言う。観音は千の手を持ち、それぞれの手に眼がついている。その千手千眼をもって、くまなく衆生の煩悩を救いとるというのが観音の基本的なイメージなのである。その救いとるというイメージを、ここでは「如人夜間背手摸枕子」という言葉で表しているわけである。

道吾の応答に対して雲巖が、「我会也、我会也(わかった、わかった)」というと、道吾は「汝作麼生会(なにがわかったというのか)」と畳みかける。それに対して雲巖は、「遍身是手眼(身体じゅうあまねく眼である)」と言い、それを道吾が「道也太殺道、祗得八九成(おぬしがいっていることははなはだ言いえている、ただ十部のうち八分九分だな)」と評し、自身の言い分として「通身是手眼(体を通じて手眼なのだ)」と言う。「遍身」を「通身」と言い換えたわけだが、両者にどんな意味上の相違があるのか。そのことへの疑問や、「八九成」という言葉の意味するところを中心として、この二人の禅師の問答を、道元は詳しく評釈していくわけである。

道元はまず、「大悲菩薩、用許多手眼作麼」という言葉の意味するところを評釈する。これは文字通りには、「どれほどの数の手眼が」ということであるが、道元はそれを数の問題ではないという。たしかに観音は、千の手眼を持った姿でイメージされるが、それは仮のイメージであって、本質的なものではない。千の手眼どころか八万四千の手眼でも及ばないほどの功徳を観音はもっている。だからその功徳を数字で表すのは間違っている。観音の功徳は無量無辺である、というのが道元の基本的な考えである。

そうした考えの上に立って、「如人夜間背手摸枕子」という言葉が再解釈される。夜間に手を後ろへ回して枕を探すというのは、なかなかわかりにくい比喩であるが、要するに、探しづらいところにも気を配り、衆生をもれなく救済するということをイメージしているらしい。救済すべき衆生は、数で数えられるようなものではない。数では表せないような、そういう衆生の存在そのものをすべて救済の対象としてやまない。そうした姿勢がこの「如人夜間背手摸枕子」という言葉によってあらわされていると考えてよいのではないか。

「遍身」と「通身」の相違については、「遍身」は身体じゅう手眼が遍在している、つまり手眼が身体じゅうについている、というイメージであるのに対して、「通身」のほうは身体を通じて手眼が働くという意味だろう。つまり身体が手眼そのものだということに等しい。だから、雲巖がいう「遍身是手眼」は数へのこだわりを残しているのに対して、道吾がいう「通身是手眼」は数を超越しているという点で、道吾のほうが正しい認識に達していると道元は言っているように聞こえる。そういうと、道元は道吾の肩を持っているようだが、別に雲巖を批判しているわけではない。かれらは最終的には同じ認識に到達するのであり、この問答はその道筋における一つの経過点に過ぎないと道元は位置づけているようである。

「祗得八九成」については、解釈が分かれる。「十いうべきところを八・九しかいっていない」と解釈するか、あるいは「そうした数にこだわるのは意味がない」と解釈するか、という相違である。道元は、後者の意味にとっているようである。というのも、十中八・九しか言わないのでは、仏法が今日まで伝わることはなかっただろうと言っているからである。仏法の教えは、数とか量でもって測れるほど単純なものではないという気持ちが働いているのであろう。

ともあれ、この巻の意図は、観音菩薩の功徳をほめたたえることにあると言ってよい。その観音菩薩は、慈悲(大悲)の心をもって衆生を救ってくださる尊いお方だという気持ちが、この巻には込められている。そこに我々は、阿弥陀信仰に通じるような他力による救いへの期待を読み取ることができる。それが、禅本来の立場である自力への信頼とどうかかわるのか。そこは興味深い点であるといえよう。






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