生きる喜びとは何か:落日贅言

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この落日贅言シリーズで二稿つづけて死を取り上げたのは、自分自身高齢となっていつ死んでもおかしくない年頃となり、死が身近なものに感じられるようになったということもある。だが、まだ生きているわけであるし、生きている限りは、生きる喜びを追求するというのが、人間の本性ではないか。そこで今回は生きる喜びについて書いてみたい。人間にとって生きる喜びとはなにか、というのは大事な問いであるし、よりよく生きるためには常にそのことに自覚的であることが望まれると思うのである。とはいっても、小生はこの問いに対して、上段からふりかぶったような答え方はしないほうがよいと考え、日ごろ生きるについて、よりよい生き方としての、喜びの多い生き方について、漠然と感じてきたことをもとにして考えて見たいと思う。だから、議論の筋道が多少ジグザグになるのは大目に見てもらいたい。

生きる喜びとは何か、について考えてみようとする場合、その生きる喜びの主体としての人間をどう考えるかによって、議論の道筋が大きくかわる。人間は複雑な生き物であるから、そんなに単純な定義になじむものではない。それでも、人間には心があるし、また身体もある。というより、人間は心と身体との複雑なコンプレックスといってよい。これはこれで非常に単純化された人間の定義であるが、しかし西洋の哲学などは、すくなくともデカルト以降の近代哲学は人間をそう捉えてきた。デカルトは人間を延長としての身体と、「われ」の実体としての精神からなる複合的な存在だと定義した。もっともデカルトは、心と身体との関係を、あまりにも機械的にとらえたので、心と身体との間に有機的な関連を見つけることができなかった。心と身体とは、基本的には別の次元で考えられるものであった。それだから、デカルト以後の西洋哲学では、デカルト的な中途半端な二元論を克服して、一元論的な立場から人間を整合的に捉えようとする動きが起きた。その動きは、心と精神の複合体としての人間の本質からして、精神的なものに比重をおくか、あるいは身体に比重を置くかという二者択一的な選択を哲学者にせまった。精神的なものに比重をおくと唯心論に傾き、身体に比重をおくと唯物論に傾いた。唯心論というのは、世界はわたしの心の作り出したものである、とする見方である。それに対して唯物論は、心は物質としての身体の働きの一部だとする考え方である。

生きる喜びということに関しては、唯物論からする議論のほうが圧倒的に多かったように思う。唯心論のほうは、伝統的に宗教、とくにキリスト教と結びつくことが多く、そうした宗教的な議論はえてして人間の快楽を軽視するものである。快楽だけが人間の生きる喜びではないので、快楽の軽視が則生きる喜びの軽視ということにはならないが、しかし快楽が生きる喜びの根幹をなすことも間違いないと思うので、快楽なしに生きる喜びを十全にカバーすることはできないと思われる。その場合快楽とは、身体に根差すものであると考えられる。ところがそうした身体的な快楽こそ、キリスト教のもっとも忌み嫌ったものであり、したがってキリスト教と親和的な唯心論的な議論では、快楽は軽視ないし敵視されてきた。だいたいキリスト教というのは、苦悩を価値あるものとするので、その苦悩が生きる喜びを損なうと考える限り、キリスト教的なものが生きる喜びに価値をおいたとは云えないのである。

唯物論の立場から生きる喜びについて論じた人として、エピクロスがあげられる。エピクロスは、俗に快楽論者といわれるほど、快楽について自覚的であった。もっともエピクロスは、その快楽を単に肉体的なものとは考えずに、心の平安をもたらすものだとした。つまり心の満足と身体的な快楽とはハーモニーの関係にあるべきだと考えたわけである。そうした心の平安をエピクロスはアタラキシアと呼んだが、それは単に肉体的でもなく、また単に精神的でもなく、精神的な満足を伴った身体の快楽なのであった。

エピクロスは、人間の生きる喜びにとって身体的な快楽の果たす役割を非常に重視していた。人間はまず、自分の身体を快適にたもつことが重要なのであり、精神的な満足感はその快楽にともなってやってくる、というふうに考えたわけである。そうしたエピクロスの快楽論は、その後の唯物論の議論をリードしてきた。あのマルクスもまた、エピクロスの快楽論を非常に高くかっていた。

人間の快楽は三つの本能に対応している、とよく言われる。三つの本能とは、性欲、食欲、睡眠欲である。どれも人間にとって決定的に重要であるが、快楽が問題にされる場合には、性欲がもっとも重視される。性欲というのは、種の保存のために自然がさずけたもので、およそ生あるものには生得的にそなわっている。だからどんな生き物も、性欲の発散を追求するものだ。ところが人間の場合には、この性欲が異常に発達している。ふつう生き物には繁殖期というものがって、性欲の発動もその繁殖期に応じたリズムをもっているものだが、ひとり人間だけは、そうしたリズムと無縁に、年がら年中発情することができる。しかもその発情が、無類の幸福感をもたらす。そのことから、人間の快楽の大部分は性欲の発動にともなうと言ってよいほどである。

たしかに、性的な衝動が発散されたときほど人間が幸福感を覚えることはない。その幸福感を追求するために、人間は生きているといってよいほどである。古来世界のあらゆる文学作品のテーマが男女の恋愛であったということは、人間にとって自然な傾向なのである。男女の恋愛をモデルとした、人間同士の間での性的な結合こそが、生きているという実感をもっとも強烈なかたちで与えてくれるのである。

食欲の満足もまた人間に幸福感をもたらす。うまいものを食ったときの満足感は強烈なものだ。だが、性欲の満足ほど強くはないと思われる。人間はまずいものを食っても腹がふくれるし、腹が膨れている間は、食欲を起こさない。ところが性欲にはそういう制約はない。性欲の満足はその反復を求めさせる。俗に、やればやるほどやりたくなる、というではないか。だから、生きる喜びを高めるコツは、うまいものを食って、セックスを楽しむということに尽きるのではないか。

日本人、とくに文人気質の人には、そういう生き方を楽しんだ人が多い。荷風散人などはその典型であろう。洒落た茶屋でうまいものを食い、その後女を抱く。これほど享楽的な生き方はない。その生き方に徹した荷風は、生きる喜びにもっとも通じた達人というべきであろう。荷風以前には成島柳北のような風流人がいて、明治の初年フランスに旅した時には、まずうまいものを食って、女を抱いたものだった。その折のことを柳北は、「ザングレイ楼ニ飲ム。肴核頗ル美ナリ。帰途酔ニ乗ジテ安暮阿須街ノ娼楼ニ遊ブ」と日記に記し、そんな自分の振舞いを「是鴻爪泥ノミ」といって謙遜している。

性欲、食欲と比べると、睡眠欲のほうは、生きる喜びとどんなかかわりがあるか。睡眠の欲動は、強烈な点では、性欲や食欲以上だと思うが、だからといって、それ自体は快楽とは言えない気もする。というのも、睡眠への衝動は、フロイトによれば、死の本能の現れということにされており、生の本能とは対極に位置づけられている。その証拠としてフロイトがあげるのは、人間には平安への強い傾向があって、その平安の究極の状態が睡眠だというのだが、たしかに睡眠は無為の状態であって、そこから快楽が生じるというのは、比喩としてはともかく、実際には快楽とはいえないのではないか。

以上は、唯物論の立場から、生きる喜びとしての快楽について述べたものである。では唯心論の立場からはどんなことが言えるのか。唯心論者が、快楽とか生きる喜びについて積極的に発言したという例を小生は寡聞にして知らない。唯心論者が快楽を云々するとすれば、自分自身を神に見立てて、その神の創造の働きのなかに喜びを覚えるということになろうか。創造に喜びを認めた思想家としてニーチェがあげられる。ニーチェは露骨な唯心論者ではないが、世界を人間の存在にとっての与件としてではなく、人間が作っていくもの、つまり人間の創造物だというふうに考えていた。これには、神のイメージを人間に重ね合わせるという視点が働いているようだ。いずれにしても、唯物論以外のものが、人間にとって最大の喜びとはなにかと問うたときに考えられる答えとしては、創造の喜びだとするのがもっとも気の利いた答えであろう。

いつ死んでもおかしくない小生のような老人が、柄もなく生きる喜びなどということについて云々してしまった。そんな小生を笑うなかれ。人間という生き物は、生きているかぎり、生きる喜びを求めるものなのである。






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