ムイシュキン公爵の人間像:ドストエフスキー「白痴」から

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ドストエフスキーの小説「白痴」は、ムイシュキン公爵という青年を中心に展開するのだが、そのムイシュキン公爵というのがきわめて特異な人間像として造形されている。小説のタイトルである白痴としての人間像だ。その白痴という言葉が、小説のいたるところで、ムイシュキン公爵の基本的な属性として言及されている。なにしろ、小説の中に出てくるすべての人物にとって、ムイシュキン公爵が白痴であるということは、疑い得ないことであり、共通認識になっているのである。では、その白痴という言葉で、どのような性格なり知的な能力なりが表象されているのだろうか。性格という点では、ムイシュキン公爵は裏表のない天衣無縫というべきお人よしであり、したがって人に騙されやすい。世の中ではそういうタイプの人物を評して「ばか」と呼ぶので、ムイシュキン公爵が馬鹿とよばれるのは不自然ではない。ロシア語では、「馬鹿」と「白痴」は同じ言葉(Идиот)で表されるからである。一方、知的な能力という点では、ムイシュキン公爵の知能が幼児並に低いということはない。たしかにかれは、常識をわきまえないようなことを繰り返すが、自分のしていることや発言の内容に関して自覚的であるし、判断も常軌を逸しているとは言えない。だからかれを、低能という意味での「白痴」と断定するのは不当というべきだろう。

先にも述べたように、ムイシュキン公爵と接した人物は、例外なしに、かれが白痴であると直感する。これは、ナスターシャ・フィリッポヴナやアグラーヤ・イヴァーノヴナのように、かれを愛してしまう女性でさえ免れなかったことだ。彼女らのムイシュキン公爵についての第一印象は、かれが白痴であるというものだった。もっとも彼女らは、あからさまに「白痴」という言葉は使っていない。「お馬鹿さん」というような、カモフラージュされた言葉を使っているのだが、それにしても、ムイシュキンの第一印象は、彼女らのような人にとっても「白痴」であるというものだった。

しかし、他人の第一印象で白痴と判断されるというからには、なにか特別な雰囲気を当該の人物が発散していると考えなければ不自然であろう。つまり見た目に白痴とわかるようでなければならない。そういう雰囲気を漂わせている人は確かにいる。知能の低さが顔に現れているような人である。しかし、この小説の中のムイシュキン公爵は、そういうようには見えない。たしかに、お人よしのあまりに簡単にだまされたり、あるいは自分の心をコントロールできないためにしばしば放心状態に陥ったりはする。しかし、それはそうしばしば起きることではなく、普段のムイシュキン公爵はごく普通の人間なのである。にもかかわらず作者はかれを白痴として描き、すべての登場人物にかれが白痴であると判断させているのである。

ドストエフスキーは、どういうつもりで、そのように設定したのだろうか。ムイシュキン公爵が世間知らずでお人好しなために、はた目に子供っぽく見え、そこが「ばか」と呼ばれる理由になるとしても、生まれながら知能の発達がおくれた精神薄弱者と決めつけるのはすこしやりすぎではなかったか。ムイシュキン公爵の知能レベルは、世間並みの水準を大きく逸脱しているようには見えないし、また、人間関係もかれなりにうまくこなしている。普通の人間である友人たちに、影響力を発揮するほどである。知能の遅れた「白痴」にはそんなことはできないと思われるから、ムイシュキン公爵を「白痴」と呼ぶことは、言葉の誤用ではないかと思われるのである。

もっともムイシュキン公爵には、判断の甘いところがあり、そのために自分を窮地に追い込むことはある。その典型は、アグラーヤの愛に適切に応えられなかったことである。ムイシュキン公爵とナスターシャとの関係に疑問を抱いたアグラーヤが公爵に試練を与えた時、公爵はアグラーヤにたいして誠実を貫くことができず、中途半端な態度を見せた。それを二人の女を股にかけて弄んでいるとアグラーヤが判断し、結婚式の日取りまで決まっていたアグラーヤとの婚約が解消される事態に公爵は追い詰められるのである。その最大の理由は、公爵の判断が優柔不断だったことと、公爵が二人の女性のどちらをも愛していたということだった。同時に二人の女性を愛するというのは、事実としては成り立ちうるが、しかし道徳的に許されることではない。その世間的な道徳が、どうもムイシュキン公爵にはよくわかっていなかったようなので、その点では「馬鹿者」と呼ばれても致し方がないところだ。だがそれを以て「白痴」と呼ぶのは行き過ぎというべきであろう。

ムイシュキン公爵には、白痴呼ばれるような要素のほかに、癲癇持ちという面もある。その部分はドストエフスキーも共有していたので、ドストエフスキーはムイシュキン公爵に自分自身を投影したのだという解釈も出された。しかし、癲癇持ちだという要素を除いては、ムイシュキン公爵にドストエフスキー自身の影を見ることには大した根拠がなさそうである。ドストエフシキーの性格のゆがみは、たとえば賭博好きという面に読み取ることができるが、ムイシュキンは賭博とは無縁な人間として描かれており、そのほか、ドストエフスキー自身を暗示させるようなものは、癲癇発作の描写を除いては見られない。その癲癇発作の描写は、アグラーヤとの事実上の婚約を記念して開かれた上流社会のパーティの場でおこった。上流社会の雰囲気になれていないムイシュキン公爵は、すっかりどぎまぎしてしまい、その挙句に癲癇の発作におそわれる。その際に、壊してしまうことをおそれて決して近づかないよう気を付けていた高価な陶器を壊してしまうのである。陶器を壊したことは余分な脚色だと思うが、癲癇発作の描写は、ドストエフスキー自身の体験をそのまま描いたのであろう。

だが、白痴と言い、癲癇と言い、それは小説の本筋ではない。本筋は、ムイシュキン公爵を、子供のように天真爛漫な人間として描くことにあったと思われる。この小説はあくまでも、ムイシュキン公爵の人間としての成長に欠かせないイニシエーションを描くことを目的としていたと言えるのである。





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