デリダによるルソー「社会契約論」の読み替え

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ルソーの「社会契約論」は、社会の始まりとその社会における権力の正統性をめぐる議論というふうに、受け取られるのがふつうである。ルソーは、社会は自然発生的に生じたもではなく、人々の間の契約によって生じたと考える。その場合に、社会を運営するためには社会の意思を決定し、それを執行する権力が必要となる。その権力は社会の成員によって支持されていなければならぬ。でなければ、人々は自発的に権力に従うことはせず、権力との間に緊張が高まるであろう。そういう社会は長続きしないだろう。そこで、権力が人々によって受容される根拠として権力の正統性ということが問題になる。ルソーの「社会契約論」は、その権力の正統性について、議論したものという風に理解することができる。

権力の正統性をめぐるルソーの議論はかなり錯綜している。かれは一方では、人民の意思はまるごとは譲渡できないという考えに固執しながら、他方では、権力が正統性を持つためには、人民がその意思(能力)の一部を譲渡するという擬制が必要だと考えていた。この相互に矛盾する考えをなんとか調和させようというのが、「社会契約論」で展開されている議論の骨格なのである。だがそれは、そもそも調和できないものを、無理に調和させよとする試みなのではないか。デリダによる「社会契約論」の読み方は、そういうかれの問題意識を反映している。

デリダはルソーの社会契約論を、政治権力の問題としてのみならず、人間の社会制度全般の問題について議論としてとらえる。その社会制度の中には、言語や芸術も含まれる。言語や芸術も、人間同士の決まり事という意味で、社会契約の上に成り立っていると考えるのである。そんなわけでルソーの社会理論は、徹底して構成論的である。構成論的というのは、ここでは、自然ではなく制度に重心をおく議論という意味である。人間社会を、自然発生的なものとして見るのではなく、人間同士の取り決めによって作られたと見るのである。

社会制度のなかで、デリダの目に映じたルソーのもっとも重視したものは、権力と言語である。権力は、人民による権力者への意思の委任に基づく。それを言い換えれば、権力とは人民の意思の代理だということになる。根源に人民の意思があって、それを代理するものがある。代理されるものは人民の意思であり、権力はそれを代理する。だから、権力は、基本的には、人民の意思を踏まえるべきであり、そこから遊離して、自己の独立性を追求することがあってはならない。

言語についても、同じようなことが言える。根源的な意味での言語は音声言語である。それに対して文字言語は、音声言語を代理するという関係にある。だから、文字言語が音声言語から遊離し、それ自体の独立を目指すようになるのは、言語の堕落である。

文字言語が音声言語の代理であるということを、ルソーは次のように言っている。「言語は話されるために作られており、文字言語は音声言語の代補の役を果たすだけである・・・思惟の分析は音声言語によってなされ、音声言語の分析は文字言語によってなされる。音声言語は約束的<慣習的>な記号によって思惟を表現<代理>し、文字言語は同じようにして音声言語を表現<代理>する。それゆえ、書く技術は思惟の間接的表現<代理>でしかなく、少なくとも、われわれの間で用いられている唯一のものである声による言語についてはそうである」(足立和弘訳)。

同じようにして、権力は人民の意思の代補の役を果たすだけである。人民の意思は権力によって表現される。権力は人民の意思の表現<代理>である。にもかかわらず、権力が人民の意思に反して、自己の独立を追求することがある。それは代理からの逸脱であり、根源からの乖離である。その乖離は埋められねばならない。「正当性を認める法廷は・・・直々に現前する<代理されるもの>であって、これが正当性の源泉であり神聖な起源である。邪悪な行為は、まさしく<代理するもの>や<意味するもの>を神聖化するというところにある」。

こういう事態はしばしば起きることである。それゆえ「人民が<代理するもの>(代表者)を与えられるやいなや、それはもはや自由ではなくなる。人民はもはや存在しなくなる」ということになる。

こんな具合にしてデリダは、ルソーの社会契約論のうち、主権の譲渡不可能性のほうに焦点を当てた議論を展開する。主権を譲渡したことの直接的な結果として、主権の喪失をもたらすのである。したがって、そうした事態に事前に歯止めをかけておかねばならない。ルソーはその歯止めとして、人民の意思の根源的な部分は譲渡不可能だとする考えを前面に出す。たしかに、社会を有効に運営するために、それについての人民自身の意思を執行する権力を、代表者のようなものに譲渡することはできるが、つまり執行権力を譲渡することはできるが、意思自体は神聖不可侵なものであって、譲渡することはできないというふうに擬制するわけである。この場合の意思とは、人民の全体的な意思のことである。人民というのは集合的な存在であるから、その意思は全体的なものでなければならない。それをルソーは「一般意思」と呼んでいる。その一般意思は譲渡できないが、それの一部を譲渡することはできる。その譲渡できる意思の部分をルソーは権力と呼び変え、権力については譲渡可能だが、一般意思は譲渡できないと考えるわけである。そこからルソーなりの抵抗権の思想が出てくるわけであろう。






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