有時:正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第二十は「有時」の巻。有時という言葉の解釈をめぐって、道元独自の時間論を説く。通常、この言葉は「ときあって」とか、「あるときは」というふうに使われるが、道元はそれとは異なった意味を持たせる。「有時」(<うじ>と読ませる)という熟語として使い、それに独特の意味を付与するのである。

冒頭に古仏の言を引用した後で、道元はこの「有時」という言葉の意味を次のように説く。「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。丈六金身これ時なり、時なるがゆゑに時の莊嚴光明あり」。つまり、時とは有(存在)のことであり、有は時そのものだというのである。これは存在が時間と不可分だということを意味している。時間を離れて存在はないし、存在を離れて時間はないというのである。それゆえ、丈六金身(仏身のこと)は時であり、時であるからこそ時の荘厳な現れだということになる。

こうした道元の考えは、非常にユニークなものである。仏教では、現実離れしたイメージで時間の長さを語ることはあるが、時間そのものの本質に関する議論はほとんどみられない。ましてや、時間と存在とを不可分のものだとする道元の説は、彼以前にはなかったものと言ってよい。

時間と存在とを不可分のものとしたうえで、ではその両者は、具体的にはどのような関係にあるのか。それについて道元は、続く分節の中で次のように説く。「われを排列しおきて盡界とせり、この盡界の頭頭物物を時時なりと見すべし。物物の相礙せざるは、時時の相礙せざるがごとし。このゆゑに同時發心あり、同心發時あり。および修行成道もかくのごとし。われを排列してわれこれをみるなり。自己の時なる道理、それかくのごとし」。「われを排列」というのは、自分自身を配列するという意味である(排列は配列と同義)。そのわれが配列されることから、世界が生まれ、その世界がそのまま時間を帯びるということになる。ということは、世界とは時間と存在(空間的なイメージ)からなっており、その存在と時間とは、われつまり人間の主体的な心の中に根拠を持つのだと主張しているのである。

これは現代風にいえば、唯心論の考えということになる。道元はその唯心論を、華厳経を通じて身に着けたと思われる。心が世界の根拠であり、その心にすでに時間と存在とが一体となって含まれている。だからその心を配列すれば、おのずから世界(時空)が生成するということになる。

次に道元は、時間そのものとしての時間の特徴について説く。時間には過去・現在・未来という次元があるが、それは時間が流れていることによる。その時間の流れを道元は「飛去」という。「去来」と同じような意味の言葉である。その飛去について道元は次のように言う。「時は飛去するとのみ解会すべからず、飛去は時の能とのみ学すべからず。時もし飛去に一任せば間隙ありぬべし。有時の道を経聞せざるは、すぎぬるとのみ学するよりてなり。要をとりていはば、尽界にあらゆる尽有はつらなりながら時時なり。有時なるによりて吾有時なり」。
時間を飛去するものとのみ考えると、そこに間隙ができる。しかし時間はたえず流れるものであるから、間隙ができるわけはない。だから、時間を飛去とのみ考えてはならぬのである。そうした連続性において時間を見る見方は、ベルグソンの時間論を思わせる。

とはいえ、時間には過去・現在・未来という区別があるのもたしかである。そうした区別を道元は経歴と言っている。「有時に経歴の功徳あり。いはゆる今日より明日に経歴す、今日より昨日に経歴す、昨日より今日に経歴す、今日より今日に経歴す、明日より明日に経歴す。経歴はそれ時の功徳なるがゆゑに」。つまり時間は過去から現在へと、現在から未来へと、あるいはその逆へと、リニアに流れると考えるのである。リニアに流れるのではあるが、そこには間隙は生じない。連続していながら、しかも節目がある、というのが道元の時間の見方である。

道元は最後に、存在と時間との関係について、次のように整理する。「山も時なり、海も時なり、時にあらざれば山海にあるべからず、山海の而今に時あらずとすべからず。時もし壊すれば山海も壊す、時もし不壊なれば山海も不壊なり。
この道理に明星出現す、如来出現す、眼睛出現す、拈花出現す、これ時なり。
時にあらざれば不恁麼なり」。これは要するに、時間と存在とは不可分一体のものだということを、改めて確認したものである。

このように見てくると、「有時」という言葉が「存在と時間」という意味合いで使われてることがよくわかると思う。






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