ラスコーリニコフとソーニャ:ドストエフスキー「罪と罰」を読む

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ラスコーリニコフを「回心」させたということで、ソーニャという女性は、この小説の登場人物の中ではもっとも重要な役割を持たされている。ドストエフスキーには、自身は不幸でありながら、ひとを精神的に高めさせるような不思議な魅力をもった女性を好んで描く傾向があるが、この小説のなかのソーニャはそうした女性像の典型的なものであろう。ドストエフスキーは、この不幸な女性を、聖母のような慈悲深い女性として描いているのである。聖母は、掃きだめの中でうごめいているような惨めな人間たちに慈愛の眼を向け、温かく包み込み、生きる勇気を与える。ソーニャは、ラスコーリニコフに対してそんな聖母のようなイメージで接しているばかりか、ラスコーリニコフが収容された監獄の囚人たちにまで強い影響を及ぼすのである。

小説の冒頭近い部分でラスコーリニコがマルメラードフに出会うシーンを早くも挟んでいるのは、ソーニャの登場の前触れのような位置づけだ。ソーニャが実際に登場するのは、マルメラードフが死ぬ場面であるが、彼女のことはすでにマルメラードフの口からきかされているので、読者はすでに彼女を知っているわけである。最初の(冒頭近くの)場面では、マルメラードフは自分の娘であるソーニャが、家族のために自身を犠牲にし、父親たる自分までが彼女を食い物にしているという事情を話す。彼女は、家族を養うために、黄色い鑑札をもらう羽目になっているのだ。黄色い鑑札とは、職業的売春婦に交付される身分証のことである。彼女は、まだ18歳くらいの体の小さな女で、青い眼が印象的というふうに紹介される。家族とは離れて一人暮らしをしているが、それは売女を住まわせておくわけにはいかぬというアパートの大家の意向なのである。しかし彼女は、この小説の中では娼婦らしい振る舞いは一切しない。ただ、けばけばしい衣装をつけていることが、商売女らしい印象を与える程度である。

ソーニャは、ラスコーリニコフを含めて、誰に対しても謙虚に振舞う。自分自身が置かれている惨めな境遇を恨んだりもしない。家族といっても、血のつながっているのはぐうたらな父親だけで、あとは父親の後妻とその三人の子供たちなのだ。でもソーニャは、後妻や連れ子たちに対しても肉親のような気持ちをもって接する。かれらを含んだ家族のために自分の身を売ることに甘んじるのである。もっともドストエフスキーは、どういうわけか、彼女の娼婦としての振舞いについては一切触れようとはしない。だから、マルメラードフの話だとかそのほかの周辺的な説明がなければ、読者は彼女を娼婦として受け取るきっかけがないほどなのである。

ともあれラスコーリニコフは、彼女を一目見た時から、異常な関心を覚える。その関心はやがて強い精神的な絆に高まっていくのだが、しかし普通の意味での性愛ではない。ラスコーリニコフはソーニャを、一人の女としてではなく、精神的にたよるべき人間として受け止めるのである。ラスコーリニコフには、精神的に頼れる存在がなかった。母や妹は近すぎてほとんど自分自身と一体のような存在であるし、心を開いて話のできる友人もいない。ラズミーヒンは、色々な意味で便利な男ではあるが、心を開いて話せる相手ではない。ところが、ソーニャには、自分の心を開かせる何かがあった。心の平安を失ったラスコーリニコフには、身近に人間がいてくれることが必要だったのだが、その人間がソーニャだったというのである。

そのソーニャは、信仰心のあつい女として描かれている。彼女が頑迷といえるほど心のとがったラスコーリニコフをついに回心させるに到るのは、その信仰心なのである。彼女は聖書の一節をラスコーリニコフに読んで聞かせ、また、自分の身に着けていた十字架を、ラスコーリニコフの十字架と交換したりする。そういうやりとりを通じて彼女は、ラスコーリニコフの心をとらえていくのである。娼婦としてのソーニャにあつい信仰心を持たせたのは、ドストエフスキーのこだわりだったろう。ドストエフスキーは、「罪と罰」の直前に書いた「地下生活者の手記」のなかで、リーゼという絶望した娼婦を描いていたが、そのリーゼには心のよりどころとなる信仰があるようには見えなかった。それゆえ彼女は、絶望の淵から這い上がることができず、破滅していく。ところがソーニャは、その信仰を通じて、ラスコーリニコフを回心させるばかりか、自分自身もまた未来に希望を持つようになるのである。

そういう設定は、いささかの甘さを感じさせないでもない。その甘さは、ドストエフスキー自身の「回心」に根差しているのかもしれない。この小説を書くころには、ドストエフスキーのロシア的なものへの回帰はいっそう進み、そのロシア的なものの象徴としてキリスト教への信仰があった。そういうものをドストエフスキーは、ソーニャによって代表させたと受け取ることもできるわけで、ソーニャこそはドストエフスキーが達したロシア的なものの境地を象徴するシンボルとして位置づけられていたといえるのではないか。

ともあれ、同じく娼婦であっても、リーザとソーニャとでは根本的に異なる。リーザは誰からも愛されず、また自分自身愛を貫くことができなかったために、生きていることに絶望せざるをえなかった。ソーニャは、ラスコーリニコフの愛を感じることができた。愛を感じることのできる人間は、生きることに絶望したりはしない、実際ソーニャは、自分の生涯をラスコーリニコフに結びつける決断をするのである。






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