ドゥルーズ「ニーチェと哲学」を読む

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ドゥルーズは、ベルグソン、ヒューム、ニーチェ、カントといった思想家たちと向き合うことから自分自身の思想を生み出していった。なかでも彼に決定的な影響を与えたのは、ベルグソンとニーチェである。ベルグソンについては、差異という概念を彼なりに基礎づけるにあたって大きな手がかりとした。ベルグソン自体には差異という概念を大げさにあつかう気はなかったはずなのだが、というより差異つまり分節以前の現象の全体を主題とした思想家であるはずなのだが、ドゥルーズはベルグソンを差異の思想家として解釈しなおし、それを材料にして自身の差異の哲学を構築しようとした。ニーチェについては、西洋思想の伝統の破壊者として位置づけることで、その破壊の意思を受け継ぐ形で、自分自身西洋思想の破壊者として振舞う決意をしたというふうに言えるのではないか。もう一人、ドゥルーズが大きな影響を受けた思想家としてスピノザがあげられる。そのスピノザをドゥルーズは、ニーチェを通して再解釈した。それを簡単にいえば、キリスト教の否定と唯物論的な快楽主義と道徳的な価値の転倒ということになる。いずれにしても、ニーチェに依拠しながら既成の哲学を批判し、西洋思想の伝統を根本的に解体しようとする意志を、ドゥルーズには感じることができる。そんなことから、ドゥルーズはニーチェの最良の弟子ということができる。かれの初期の著作「ニーチェと哲学」は、かれが解釈したニーチェ思想の真髄を披露したものである。

ドゥルーズ以前にも、ニーチェを西洋思想の破壊者として捉えた哲学者はいた。その代表的なものはハイデガーである。ハイデガーは、一方ではニーチェを西洋思想を根本から解体することを狙った思想家として捉えるとともに、その解体の廃墟に立つものとしての超人に眼をつけた。その超人が、ハイデガー自身の理想を体現したものと思われたからだろう。超人はハイデガーにとっては、ドイツ民族の優越性を体現したものと映った。そゆゆえハイデガーのニーチェ論は、西洋哲学の解体という面よりも、超人の理想を語るための材料としてニーチェを利用するようなこととなった。ニーチェがファシズムを鼓舞したという理由で非難されがちなのは、ハイデガーのニーチェ論がそうした見方を強める働きをしたからである。

ドゥルーズもまた、ニーチェを論じるにあたって、超人の概念にも触れる。だが、それは、超人の概念がニーチェ哲学において占める意義を考えれば当然のことである。問題は、ハイデガーのように、超人の概念を以てニーチェ哲学全体を代表させてしまうことである。ドゥルーズはそうしたやり方はとらなかった。かれのニーチェ論は、あくまでも西洋思想の解体をねらう破壊者としての側面に焦点をあてたものである。破壊者としてのニーチェを、ドルーズは次のように描写している。「ニーチェが問題である場合には、われわれは反対に次の事実から出発せねばならない。すなわち、彼が創出し構想するような価値の哲学は、批判の真の実現であり、全体的批判を実現する、つまり『ハンマーをもって』哲学する、唯一の方法であるということだ」(足立和弘訳)。ニーチェを「ハンマーをもって」哲学する思想家としてとらえることで、ドゥルーズはニーチェを西洋思想の大胆な破壊者として位置づけるわけである。こんな役割をニーチェに与えたものは、ドゥルーズが最初の人だったのではないか。

この著作「ニーチェと哲学」は、ニーチェの思想を多面的な側面から解明しようとするものであるから、ニーチェを「ハンマーをもった」思想家として片づけてすむわけのものではない。ニーチェの思想には、さまざまな要素が絡み合って存在する。それらの要素は、それぞれに固有の概念を割り当てられており、その概念が相互に働きあうことで、全体として西洋思想の解体という目的を追求する形になっている。こころみにそれらの概念を並べると、力への意思、能動と反動、永遠回帰、真理とは何か、怨恨とやましい良心、超人、ニヒリズムといったものがあげられる。これらの概念は相互に絡み合い、全体としてニーチャの批判哲学を構成しているのであるが、特に重要な役割を果たすのは「力への意思」である。この著作全体が「力への意思」の解説に費やされていると思えるほど、この概念は全巻にわたってくりかえし取り上げられる。要するに、ニーチェの批判哲学の中核概念といってよい。

そこで「力への意思」を定義するとどんな表現になるかということが問題になる。ところがニーチェは、ドゥルーズが得た印象の限りでは、「力への意思」について、明確な定義を行っているわけではない。ニーチェは事象の意味とか価値といったものを重視するのだが、そうした意味や価値の根拠として「力への意思」を取り上げるのである。力への意思が、意味や価値を根拠づけるというわけである。

価値は当然価値評価の問題を伴うが、価値評価とは、事象に差異を持ち込むことである。差異は位階序列をもたらす。その位階序列の意識が、ニーチェをして「系譜学」という概念に導く。系譜学というのは、位階序列についての意識化である。「位階序列とは根源的な事実であり、差異と根源(起源)との同一性である」。その差異の意識がやがて「超人」の礼賛をもたらすことになろう。超人はとりあえず、位階序列の最高位にあるものとして思念されるが、実はあらゆる位階序列を超越する存在なのである。

ともあれドゥルーズは、ニーチェの思想の骨髄となる部分を「力への意思」と、それによって根拠づけられる差異というものに見た。この差異の概念は、ベルグソンを読むことでもたらされた。それをドゥルーズは、ニーチェの読解に活用したわけである。差異を強調することは、一ではなく多を、普遍ではなく個別を、必然ではなく偶然を強調する態度に結びつく。ニーチェによる差異の肯定とドゥルーズが考えるところを、かれは次のように言っている。「意思が意志すること、それはその意思がもつ差異を肯定することである。意思は、他の意思との本質的な関係の中で、自身のもつ差異を肯定の対象とする」。

ところでニーチェは、力への意思を、肯定的なものに関連付けるだけではなく、否定的なものとも関連付ける。肯定的な力への意思がある一方、否定的な力への意思もあるとニーチェはいうのである。しかし最後には、肯定的な力への意思が勝利して、否定的なものは肯定的なものにとっての、さしみのつまのような扱いを受けることになるから、ニーチェは基本的には、力への意思を肯定的な意味で使ったと断言してよい。そのような肯定的な力への意思は、存在をそのものとして受け入れる。存在は、存在している根拠を自己の外部に求める必要はない。存在するということそのものが、肯定の対象となるのだ。そこには理由とか必然性とか責任とかいったものは必要ない。

「無責任というものにその積極的な意味を与えること」がニーチェの大きな課題であったとドゥルーズは言うのだ。「無責任、この最も高貴にして最も美わしきニーチェの秘密」というのである。





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