正法眼蔵随聞記第二の評釈その二

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正法眼蔵随聞記第二の後半は、命をおしまず仏道の修行にはげむべきとする文からなる。その多くは仏道修行のための心得である。まず、十四は、下根劣器の人でも志次第でさとりを得ることができると説く。大宋国では、数百人もいる修行僧の中でまことの得道得法の人はわずかに一人二人といった有様だったが、それは志の深い人が少なかったからである。「真実の志しを発して随分に参学する人、得ずと云ふことなきなり」なのである。「若し此の心あらん人は、下智劣根をも云はず、愚痴悪人をも論ぜず、必ず悟りを得べきなり」。それゆえ、「返返も此の道理を心にわすれずして、只今日今時ばかりと思ふて時光をうしなはず、学道に心をいるべきなり。其の後は真実にやすきなり。性の上下と根の利鈍は全く論ずべからざるなり」。

十五は、遁世の勧め。遁世とは世俗を捨てて仏道に専念することをいう。具体的には修行僧になることである。「人多く遁世せざることは、我が身をむさぼるに似て我が身を思はざるなり」。それゆえ、悟りを得ようと願う者は遁世せねばならない。

十六は、「朝に道を聞て夕べに死すとも可なり」という論語の言葉を引きながら、折角人として生まれてきたのだから、生きている間にさとりを得るべく務めよと説く。「曠劫多生の間だ、いくたびか徒らに生じ徒らに死せしに、まれに人身を受けてたまたま仏法にあへる時此の身を度せずんば、何れの生にか此身を度せん」というのである。

十七は、無用のことをなしていたずらに時を過ごさず、仏祖の行いに倣って修行すべきであると説く。「無用のことをなして徒らに時を過さず、詮あることをなして時を過すべきなり。其のなすべきことの中にも、亦一切のこといづれか人切なると云ふに、仏祖の行履の外はみな無用なりと知るべし」なのである。

十八は、古きものを大事にするを貪惜といい、古きをすてて新しきものを愛するを貪求というとして、どちらが望ましいかという問いにこたえて、両方ともに執着せぬのがよいが、どちらかと言えば、古きものを大事にする態度のほうが望ましいと説く。

十九は、父母への報恩について。在家のものは父母への報恩をなによりも大事に思うが、仏者はそうではない。「出家は恩をすてて無為に入る故に、出家の作法は恩を報ずるに一人にかぎらず、一切衆生をひとしく父母のごとく恩深しと思ふて、なす処の善根を法界にめぐらす。別して今生一世の父母にかぎらば無為の道にそむかん」というのである。つまり万人を父母と思い敬い、自分の父母だけを特別扱いするなというのである。この部分は、仏教を儒教と区別するもっとも肝心な主張であろう。

二十は、自分の死がいつやってきてもよいように、それに備えた修行をなすべきと説く。「死なざる先きに悟を得んと切に思ふて仏法を学せんに、一人も得ざるはあるべからざるなり」。

二一は、美食に執着してはならぬと説く。「僧は斎食等をとゝのへて食することなかれ、只有るにしたがひてよければよくて食し、悪きをもきらはずして食すべきなり。只檀那の信施、清浄なる常住食を以て、餓を除き命をささへて行道するばかりなり」というのである。

二二は、人にはすでに仏性が備わっているというのが禅の考えである。その考えに従えば、仏性を自己の外に求める必要はないということになる。したがって余計な修行をせずとも、自ずから悟りを得ることができるのではないか、という疑念が起きる。その疑念に応えようというのが、この部分の趣旨なのだが、かならずしも文意が明確とはいえないようである。ただ、坐禅に励むべきだと言っているように聞こえる。

二三は、世俗の風習にはとらわれるなと説く。「一日請益の次でに云く、近代の僧侶、多く世俗に随ふべしと云ふ。今思ふに然あらず。世間の賢すらなを民俗にしたがふことをけがれたることと云ひて、屈原の如きんば世はこぞって皆よへり我は独りさめたりとて、民俗に随はずして、糾に滄浪に没す。況や仏法は事と事とみな世俗に違背せるなり。俗は髪を飾る、僧は髪を剃る。俗は多く食す、僧は一食す。皆そむけり」というのである。

二四は、人にはそれぞれ分際というものがある。仏教者の分際は仏道を修行することである、と説く。「俗は天意に合はんと思ひ、納子は仏意に合はんと思ふ」というのが本来のあり方なのである。

二五は、在宋の折、師匠の如浄が寝る間も惜しんで仏道に励んだことをあげ、仏道を志すものは寝る間を惜しんで修行に励むべきと説く。「何ぞ出家して入叢林するや。見ずや、世間の帝王官人、何人か身をたやすくする。君は王道を治め臣は忠節を尽し、乃至庶民は田を開き鍬を取るまでも何人かたやすくして世を過す。是れをのがれて叢林にいって空く時光を過して、畢竟じて何の用ぞ」というのである。

二六は、心身のうち、修行にとって肝心なのは、身をいじめることであると説く。心を放下して、身をもって坐禅に励むべきだという意味である。「見色明心聞声悟道の如きも、猶を身の得るなり。然あれば心の念慮知見を一向に捨て只管打坐すれば道は親しみ得なり。然あれば道を得ることは正しく身を以て得るなり。是に依て坐を専らにすべしと覚へて勧むるなり」というのである。






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