岡本喜八「殺人狂時代」 優勢保護思想をひやかすブラック・コメディ

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岡本喜八の1967年の映画「殺人狂時代」は、人口調節と称する人間の生命の間引きというテーマを、冷笑的に描いたブラック・コメディである。生命の間引きは、優勢保護思想と深く結びついていて、生きる価値のない者は淘汰すべきだとするいう考えに立っている。その考えに基づいて、胎児の間引きが行われたりする。ところが、間引きされる胎児の中には、優勢保護以外の理由によるものもあり、輝かしい未来を奪われるものがいる可能性もある。一方、現に生きていて、しかも社会の役に立たず、かえって重荷になっている大人がたくさんいるわけだから、優勢保護の本来の趣旨からしても、役立たずの大人を片付ける方がずっと合理的なのである。そんな怖ろしい考えを実現しようとする者がいて、それに立ち向かう人がいる。映画はその両者の戦いぶりを、コメディタッチで描く。

人口調節審議会という怪しげな組織があって、その会長は精神病院を経営している。人口調節という考えにこの男がとりつかれたのは、日々接する精神病患者を見て、かれらには生きる価値がないと確信したからだ。そんな男と手を結び、膨大な規模で人口調節を勧めようと計画するものがいる。何とかいう名のドイツ人だ。そのドイツ人はヒトラーの心酔者で、当然優勢保護思想に取りつかれており、無用の人間を抹殺しようと考えているのである。

かれらはテストと称して、まず三人の大人を殺す計画を始めるが、その計画の標的の一人として、ある男が選ばれる。仲代達也演じるその男は、どこかの大学で犯罪心理学を教えていることになっていて、犯罪者の真理がよくわかっている。その仲代が、わけもわからぬまま命を狙われるので、なんとか反撃して生き延びねばならない。そこで、積極的に近づいてきた女(団令子)と気のいい男(砂原英夫)を巻き込む形で、自分の命を狙う相手に立ち向かう。

映画は、仲代ら三人と人口調節審議会メンバーとの息詰まる戦いを描くことに大部分があてられる。当然アクションが見せ場となるが、それを岡本一流のコメディタッチで描くので、見ていて肩の凝らない、それでいてけっこうわくわくさせられる作品に仕上がっている。

クライマックスは、仲代と会長との直接対決。その対決が精神病院の内部を舞台に行われる。患者たちの視線を浴びながら、両者が死闘を繰り広げるのだが、それを見ている患者たちがみな放心状態に陥っていて、へんな不気味さを感じさせる。

チャップリンの「殺人狂時代」を強く意識していることは、間違いない。チャップリンの映画では、人を一人殺せば殺人犯だが、(戦場で)大勢殺せば英雄だという場面があるが、それと同じような意味の言葉がこの映画にも出てくる





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