正法眼蔵随聞記第五の評釈その二

| コメント(0)
正法眼蔵随聞記第五の後半は、前半に引き続き、世俗の因縁や自分自身へのこだわりを捨て、ひたすら仏道に励むべしとの主張を展開する。十三では、自己の思い込みを捨て師匠の言葉に従えと説く。「我が心にたがへども師の言ば聖教の言理ならば全く其に随て、本の我見をすててあらためゆくべし」というのである。師の言葉が納得できないと思うのは、それが耳に心地よく聞こえないからであるが、「我為に忠有べきことばは必ず耳に違するなり。違するとも強ひて随ひ行ぜば畢竟じて益有べきなり」なのである。

十四は、「人の心本より善悪なし。善悪は縁に随て起る」ゆえに、善縁にあうように務めるべしと説く。善い人と交われば自分もよくなり、悪い人と交われば自分も悪くなるというのである。

十五は、これも十四に続き、悪を遠ざけ善に親しむべしと説いたもの。「悪にも善にも随ふときは、心は善悪につるるなり。故にいかにもとより悪き心なりとも、善知識に随ひ良人に馴るれば、自然に心もよくなるなり」というのである。その場合、「良人に近づき善縁にあふて、同じ事をいくたびも聞見るべきなり。この言ば一度聞たらば重て聞べからずと思ふことなかれ。道心一度起したる人も、同じ事なれども聞たびごとに心みがゝれて、いよいよ精進するなり」と心得るべきである。

十六は、尻の腫物も坐禅の修行に専念することでその所在を忘れ、気づかぬうちに治ったという例をあげて、精神の集中如何で病気もなおるものだと説く。「学道勤労して他事を忘るれば、病も起るまじきかと覚るなり」というのであるが、これはやや精神主義に過ぎたるというべきか。

十七は、「唖せず聾せざれば家公とならずと」という野諺を引いて、人のそしりを聞かず、人の咎をいわねば、修行もうまく運ぶと説く。他者との間の無用の軋轢は修行の妨げになるというのであろう。

十八は、揀択の心を戒める。揀択は選択と同じで、なにかを選び取るという意味だが、ここでは、財物への執着という意味で使われている。「信心銘に云く、至道かたきことなし、唯だ揀択を嫌ふと。揀択の心だに放下しぬれば、直下に承当するなり。揀択の心を放下すると云は、我をはなるるなり」と言うのである。心身放下を、別の言葉で説いたものであろう。

十九は、寺院の主人は寺の雑事を気にせず、只管打坐に徹すべきだと説く。雑事は下のものに任せておけばよい。「所有の庫司の財穀をば、因を知り果を知る知事に分付して、司を分ち局を列ねて是を司さどらしむと。いふこ丶ろは、主人は寺院の大小の事、都て管ぜず、只管工夫打坐して大衆を勧むべきゆへなり」というのであるが、その下のものの修行はどうなるのか、については述べていない。寺には俗人もいるということか。

二十は、心身放下を、いわば清水の舞台から飛び降りることにたとえたもの。「古人の云く、百尺の竿頭にさらに一歩をすすむべしと。此の心は、十丈の竿のさきにのぼりて、なを手足をはなちてすなはち身心を放下するが如くすべし」と言うのである。その上で、「いはゆる出家と云ふは、第一まづ吾我名利を離るべきなり。是を離れずんば行道は頭燃を払ひ精進は翹足をしるとも、只無理の勤苦のみにて出離にはあらざるなり」と説く。

二一は、財物にはかかずらわるなと重ねて説く。「衣食の事は兼てより思ひあてがふことなかれ。若し失食絶烟せば、其の時に臨で乞食せん」というのである。同じようなことが、以前の部分でも出ていた。

二二は、驕慢の非なることを説く。「人人大なる非あり、僑奢是れ第一の非なり」と言ったうえで、「貧ふして諂らはざるはあれども、富で奢らざるはなし」とし、「我より劣れる大のうへの非義を云ひ、或は先人傍輩等の非義をしりていひ誹謗するは、是れ僑奢のはなはだしきなり」と戒めるのである。

二三は、「学道の最要は坐禅これ第一」と改めて強調する。「大宋の人多く得道することみな坐禅のちからなり。一問不通にて無才愚痴の人も、坐禅をもはらすればその禅定の功によりて多年の久学聡明の人にも勝る亠なり。しかあれば学人は祗管打坐して他を管ずることなかれ」というのである。いかなる人かを問わず、只管打坐すればさとりの境地に達することができる。言い換えれば、只管打坐せずには、さとりは得られないということである。





コメントする

アーカイブ