世阿弥「風姿花伝」を読む

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「風姿花伝」は、世阿弥の最初の能楽論である。第一年来稽古条々から第七別紙口伝まで、七つの巻で構成されている。このうち、第三までは応永七年(1400 世阿弥38歳)に成立、続いて第六までが応永九年ごろ成立した。第七別紙口伝は、応永二十五年(1418 世阿弥56歳)ごろに、「花習」とほぼ同時に成立した。第六までは、父観阿弥の教えを世阿弥なりに受け止めたものを書き留めたという性格が強い。とりわけ第三までは、観阿弥の教えをそのまま書いたといえよう。

第一から第三までは、能楽の基本的な心構えについて説く。この部分は父観阿弥の教えにかなり忠実だと思われる。観阿弥は申楽古来の伝統を体現した人物でもあるが、そうした伝統を踏まえた能楽の心構えがこの部分の要諦になっている。世阿弥独自の能楽論は、まだ打ち出されていないと言ってよい。第四は能楽の神事とのかかわりについて記したもので、これも申楽の伝統を踏まえたものとなっている。以上第一から第四までが、風姿花伝の本体というべきもので、これだけを伝えている写本が多数ある。

第五奥義云は能役者の生き方、第六花修云は能の創作についてそれぞれ語る。能役者の望ましい在り方について、創作の秘訣を含めて語っているものである。第七別紙口伝は、主に花とはなにかについて論じる。花とは、ごく単純化して言うと、芸の見どころ、見せどころといった意味である。役者としての芸の見せどころ、観客にとっての芸の見どころとは何かについて、丁寧に論じている。以下、それぞれの巻の内容について、ごく簡単に紹介する。

まず、全体の序について。ここでは、申楽は延年のことわざから起こり、その祖先は秦河勝であり、その河勝の子孫どもが春日・日枝の神事に従ってきたと記す。申楽の役者すなわち能役者は、その伝統を踏まえて、「ただ言葉いやしからずして、姿幽玄ならん」ことに務めるべきである。そう述べたうえで、好色・博奕、大酒を避け、稽古を怠らず、よい意見には耳をすませと勧める。

第一年来稽古条々。これは能役者の年齢に応じたあり方について語ったもの。七歳から五十有余まで七つに区分して各年齢ごとの特徴・心得を記したものである。能の稽古は七歳から始まる。十二・三歳になれば、「やうやう声も調子にかかり、能も心づくころなれば」、次第次第に能のわざを教えるべきである。この時期の花は、「まことの花にはあらず、時分の花なり」という。

十七・八になれば、声変わりして体型も美しさを失うので、時分の花はなくなるが、能役者としてやっていけるかどうかの境目なので、それなりの覚悟が必要だと説く。二十四・五歳は、生涯の芸能が定まる時期である。よって稽古の転機となる時期である。声(謡曲)と身(演技)はこの時期に定まる。そこに新たな時分の花が生まれる。

三十四・五歳で能役者としての全盛期を迎える。したがってこの時期に名声をえられぬものは、そこで頭打ちだといってよい、何故なら四十以後には新たな飛躍は望めないからである。

四十四・五以降は下降期になるので、それなりの工夫が必要となる。この時期は、たとえ能の演技が劣化しなくとも、年相応に「身の花も、よそ目の花も失するなり」。それゆえ直面での芸はできない。ともあれ、四十以降は衰える一方なので、「五十近くまで失せざらん花を持ちたる為手ならば、四十以前に天下の名望を得つべし」ということになる。

五十有余になっては、「麒麟も老いては駑馬に劣る」というとおり、だいたいが見られぬものになるのであるが、しかし例外はある、と言って世阿弥は父観阿弥が五十をすぎてなお花を感じさせたことを紹介する。その理由として、「これ、まことに得たりし花なるがゆゑに、能は、枝葉も少なく、老木になるまで、花は散らで残りしなり」というのである。

ここで世阿弥が言っているのは、花には「時分の花」と「真の花」があるということである。時分の花は年齢に相応するもので、その年齢を過ぎてしまえば失われるが、真の花は年齢が進んでも失われるものではない。それゆえ、生涯の役者として花を感じさせるには、若いころにきちんとした演技力を身につけておくことが大事なのだというわけである。

以上。年来稽古条々は、能役者が生涯のそれぞれの時期に心得るべき事柄を記し、子孫たちに教訓を垂れるかたちを取っている。この年来稽古条々に限らず、風姿花伝は、能についての理論書というよりは、子孫たちへの教訓という意味合いが強い。






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