授記:正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第二十一は「授記」の巻。授記という言葉は仏教用語で、特別の意味を持たされている。岩波の仏教辞典には「過去世において過去仏が修行者に対して未来の世において必ず仏になることを予言し保証を与えること」とある。言い換えれば、過去の時代における修行の結果として、未来における成仏が確約されるということである。だから、成仏は一代で完結するものではない、ということになる。過去世の因縁が今の世の成仏の前提となっているのである。

これに対して道元は異議を唱え、授記という言葉に別の意味を与える。成仏は、当該の者の時世を超えた修行の賜物ではなく、現世で出会った指導者の指導の賜物だというのである。その指導者自体も、自分自身を導いてくれた指導者がいて、またその指導者も彼自身の指導者がいた。この時代ごとに受け継がれる指導の連鎖を道元は「授記」と名付けるのである。その連鎖の一環として、修行者も加わるというのが、授記の意味するところである。

そのような趣旨のことを道元は、この巻の冒頭で次のように言っている。「佛單傳の大道は授記なり。佛の參學なきものは、夢也未見なり。その授記の時節は、いまだ菩提心をおこさざるものにも授記す。無佛性に授記す、有佛性に授記す。有身に授記し、無身に授記す。佛に授記す。佛は佛の授記を保任するなり。得授記ののちに作佛すと參學すべからず、作佛ののちに得授記すと參學すべからず。授記時に作佛あり、授記時に修行あり。このゆゑに、佛に授記あり、佛向上に授記あり。自己に授記す、身心に授記す」。

授記というのは、悟りを得たものから、つぎの悟りを得るものへと直接伝えられるのであり、したがって現世でのことである。なにも前世の功徳によって授記されるわけではない。そのゆえに、「無佛性に授記す」とも言われるのである。授記の保証があるから仏になるのではない。また、仏になったから授記されるのでもない。悟りを得て仏になりたいというその意志の中に授記がある。

このような道元の考えは、悟りを自力に基礎づける考えと連動している。しかも、その悟りの実現は、過去の修行の因縁によるものではなく、現世の修行の結果としてもたらされる。そう考えるところに、道元の自力修行の本質的な要素を認めることができる。さとりは、仏の慈悲によるよりは、修行者自身の意志によるのである。

それゆえにこそ、続く分節で次のように強調される。「まさにしるべし、授記は自己を現成せり。授記これ現成の自己なり。このゆゑに、佛佛、嫡嫡相承せるは、これただ授記のみなり」。つまり、授記というのは、自分自身のさとりへの意志が実現することをいうのであり、そうした実現された自己が授記というのである。

以上は、授記についての総論的な説明である。以下、例によって、様々な古仏たちの言動を紹介しながら、その具体的なありようを説明していく。その前に、授記の種類として八種があげられているが、たいした意味はない。ただ、授記が現世における修行だということを納得すればよい。






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