リベラルに希望はあるか

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岩波の雑誌「世界」の最新号(2024年2月号)が「リベラルに希望はあるか」という特集をしている。いまどき何故リベラルを、しかもその希望を問題にするのか、それ自体が問題であるが、それはさておいて、この特集には、いわゆるリベラルは必ずしも人間にとっての希望と結びついていないのではないかという懸念が指摘できるようだ。

リベラルのかかえる問題を考える前に、リベラルという言葉の定義をしっかり確認しておく必要がある。というのも、この言葉が日本語で使われるとき、世界の標準的な使われ方とかなりずれたところが指摘できるからである。小熊英二は「戦後日本の『リベラル』と平和主義」と題する小論の中で、戦後日本では、リベラルという言葉は、「非保守・非共産」という意味で使われてきたと、ごく突き放した定義をしている。つまり政治的なスタンスにかかわる言葉であり、具体的な内実は持たないというのである。

非保守・非共産という政治的なスタンスは、平和主義と結びつくところがあったので、戦後日本でリベラルと言うと、平和主義を意味するという、国際的にはかなり特殊な扱われ方をされてきたというのが、小熊のこの小論の含意である。ともあれ、リベラルという言葉の具体的な意味内容を意識しないまま、我々日本人はこの言葉を安易に使ってきたというわけである。

杉田敦、五野井郁夫、池田弘乃による鼎談「『リベラルである』とはどういうことか」は、リベラルという言葉が、政治的に都合のよい使われ方をされていることに疑問を呈している。とりわけガザに対するイスラエルの虐殺行為が、リベラルな価値を守るための戦いだという具合に使われ、そのことで、この言葉が植民地主義や非人道的な行為を合理化する根拠にされていることに強い疑問を呈している。

五野井は、「リベラルに内在する価値観が虐殺を出来させているのではないか、と言っているし、杉田は、「イスラエルがまさにリベラルな体制を非リベラルな体制から守るための戦いだと称して、国際法違反を行い、それをアメリカが追認するようなことが続けば、タカがはずれてしまいます」と言っているし、池田も、「イスラエルが行っている一つ一つのことがリベラルの名に値するのかどうかを考えたほうがよいのではないか」と言っている。

そのうえで杉田は、「他者との共存を重視すること、あるいは人間は一つのアイデンティティによって区切られるものではなく、多様性を重視しなければならないというのがリベラリズムの根幹でしょう」と言い、「リベラルであることとは、特定のドクトリンというよりも、多様な個人の共存を図るべく、教条的な主張や暴力的な強制を控えるような態度である、ということかと思います」と結んでいる。

この鼎談の趣旨に響きあうように、畠山澄子は「絶望と希望が隣り合わせのこの世界で」と題する小論の中で次のように言っている。「もはや逃げ場さえなくなったガザに原爆投下をすることをひとつの選択肢と発言しているイスラエルの政治家がいるということは絶望以外の何だろうか。私たちはいま、ただ普通に暮らしていきたいだけの普通の人々が、国際法に守られることなく無差別に殺され、殺されることを止めさせることができない世界に生きている」。

かなり悲観的な響きだが、現実を踏まえた発言なので、重みがある。





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