世阿弥が能楽論「至花道」を書いたのは応永二十七年、「風姿花伝」の別紙口伝を書いた二年後のことである。世阿弥後期の本格的能楽論「花鏡」への序論のようなものと言える。この能楽論の意図も、「風姿花伝」同様、能楽にとっての基本的な事柄を子孫たちに伝えようとするものである。その事柄を世阿弥は、ここでは五つにしぼり、それぞれについて簡単な説明を加えている。その五つとは、二曲三体事、無主風、闌位事、皮肉骨事、体用事である。
二曲三体とは、能芸の基本的な要素をいう。二曲は舞と謡曲をいい、三体は老体、女体、軍体をいう。このうち基本は二曲であって、幼少のうちからこれを叩きこむことが肝要だという。三体は、「助(尉)になるべき人体のまなび、女になるべき人体のまなび、勢へる人体のまなび」とも呼ばれる。風姿花伝では、九体をあげていたから、それらが整理されて三つに集約されたわけである。役柄の演技はこの三体を基本として、あとはそれの適用として位置付けなおすのである。
無主風とは、有主風の対立概念である。有主風は、「生得の下地に得たらんところあらん」といい、生まれつきの能力のうえに身に着けた芸風のことをいう。それを欠いたものを無主風という。要するに地盤がしっかりしていない芸を無主風というのである。
闌位事とは、たけたる位のわざという意味である。たけたる位とは、円熟した為手の境地をいうが、そういう境地にある演者が、余裕として演じるもので、本来はせぬものだが、上手がやれば見られるものになる。だが、下手がこれをやると、まったく見るに堪えなくなる。下手はあくまで基本に忠実であるべきことを、これは逆説的な形で示したものと言える。
皮肉骨事とは、芸の見どころを皮肉骨にたとえたものである。具体的には次のよに言われる。「まづ下地の生得のありて、おのづから上手に出生したる瑞力の見所を、骨とや申すべき。舞歌の習力の満風、見にあらはるるところ、肉とや申すべき。この品々を長じて、安く、美しく、極まる風姿を皮とや申すべき。また、見・聞・心の三つにとらば、見は皮、聞は肉、心は骨なるべし」。
この三つは互いに関連しあうものであり、どれが重要というわけではないが、あえて言えば、皮風の芸風を、幽玄なものとして推奨している。ここで離見の見という言葉が使われているが、これはその場を離れてあとで反省した結果得られる味わいのことである。そうした味わいに耐えるような芸をせねばならないというわけである。
体用事とは、体と用との関係について述べたものである。「体は花、用は匂のごとし」と言っているように、体とは芸の基本的な要素、用とはその働きのことを言う。芸は基本を重んじなければならぬ。基本ができていれば、おのずから働きができる、ということを説いたものである。
最後に「かやうの稽古の浅深の条々、昔はさのみにはなかりしなり」と言って、昔の人は芸を理論的に反省することがなく、体で覚えたものだが、意識的に理論化すれば、もっと合理的に芸を習得することができる、というのである。これは世阿弥の子孫への贈り物というべきものであろう。
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