佛向上事:正法眼蔵を読む

| コメント(0)
正法眼蔵第二十六は「佛向上事」の巻。仏向上の向上とは、その先という意味。だから仏向上は、仏の更にその先の境地ということになる。人は仏になることを修行の目的とするが、仏になったらなったで、更にその先を求める、それが仏向上という言葉の意味である。この巻は、そうした意味での「仏向上事」について説く。

佛向上事という言葉は、一般的な仏教語ではなく、曹洞宗の祖である洞山が言い出した言葉である。そんなわけでこの巻は、洞山についての逸話から入り、曹山ら曹洞宗の法統につながる僧たちの言葉について考察を加えている。

まず、洞山について。ある時洞山は衆に示して言った、「體得佛向上事、方有些子語話分」。仏を超えるということを体得して、まさに話すことがある、と。どんな話かと聞かれると、わしの話を聞いてもお前たちにはわからない、という。和尚にはわかっているのですか、聞かれると、わしが話していないときにお前たちにもわかるだろう、と答えた。

ずいぶん人を食ったように聞こえるが、このやりとりの趣旨は、仏を超えるというのは、それを体得してはじめてわかることであり、言葉で伝わるようなものではないということだ。

洞山はまた、「須知有佛向上人」とも言う。ただ仏向上の人があるということを知るべきだというのである。もっとかみ砕いていうと、「仏向上人になれ」でもなく、「仏向上人と相見よ」でもなく、「仏向上人がいる」と心得よということである。

ではその「仏向上人」とは、実際にはどんな人なのか。それは、「非仏」だという。どういう意味か。「佛より以前なるゆゑに非佛といはず、佛よりのちなるゆゑに非佛といはず、佛をこゆるゆゑに非佛なるにあらず。ただひとへに佛向上なるゆゑに非佛なり。その非佛といふは、脱落佛面目なるゆゑにいふ、脱落佛身心なるゆゑにいふ」。つまり、仏の境地を脱落することを以て「佛向上」というのである。仏としてなお心身脱落すること、それが仏向上の意味するものである。

浄因とのやりとりの後、雲居及び曹山との間で名をめぐるやり取りがある。そのやり取りの中で、名にこだわらぬことの意義について説かれる。己の名にこだわっておるようでは、仏向上には縁遠い。名を捨てて己にこだわらぬことではじめて心身脱落でき、また仏向上のきっかけもつかめる、というのである。

ついで磐山、智門、石頭とのやり取りがある。磐山は「向上の一路」と言った。その意味は、仏向上の境地を自分自身だけの体験とし、無暗に他人に伝えたりしないということである。智門は、「拄杖頭上挑日月」と言った。頭上の杖の先に日月があるということだが、その意味は、仏の境地のさらに先に新たな境地があるということである。石頭は、「不得不知」と言った。仏向上の境地は、じっさいに体験してみなければわからないという意味である。

最後に黄檗の言葉をめぐる考察がある。黄檗は馬祖の法統に属し、曹洞宗ではないが、道元はその黄檗も佛向上事を体得していたとする。黄檗の言葉としては、「夫出家人、須知有從上來事分」がある。これは従来伝えられてきたことを知らねばならない、という意味であるが、仏祖から直接伝えられたことを体得し、それを踏まえてさらに向上を目指すことが肝要だという意味である。黄檗は「佛佛正傳せざるは夢也未見なり」といって、師からの直接伝授を重視しているのである。

そのうえで、「いはゆる佛向上事といふは、佛にいたりて、すすみてさらに佛をみるなり」という。これは黄檗が言った言葉として紹介されているわけではないが、道元は黄檗にそのような思想があったと考えている。






コメントする

アーカイブ