能「檜垣」 世阿弥の老女物

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昨年の十月に、国立能楽堂開設四十周年を記念する演能が催され、金剛流の能「檜垣」が演じられた。その様子をNHKが先日(二月二十五日)に放送したのを見た。シテは昨年人間国宝になった金剛永謹、ワキは、これも人間国宝の宝生欣哉だった。


この曲は世阿弥の老女物の傑作と言われているが、演じられることはあまりない。動きが極端に乏しく、もっぱら謡で構成されているので、謡をやっている人でないと、面白みがないのである。晩年の世阿弥は、能は音曲が主体であって、舞や働きは音曲を引き立てるものだという考えをもっていたが、この曲はそうした考えを実践したもので、謡ばかりといってよいほどである。

テーマは、老いた白拍子の現世への未練である。その未練にひかれて成仏できないでいるので、僧の前に現れて、成仏させてほしいと願う、というのがおおまかの筋書きである。そこに、後撰和歌集をからませて、老いを詠んだ一種の歌をとりあげ、その歌を詠んだのは自分だと言わせる。筋書きといえるほどのものはこれだけなので、動きの少ないのは無理もない。

舞台には藁屋の作り物が据えられ、そこにワキの僧が登場する(以下テクストは「半魚文庫」を活用)。僧は肥後の岩戸という山に住んでおり、その山に毎日水を汲みに来る老女に関心をもっている。そんな僧の前に、老女が柄杓を携えて現れる

ワキ詞「これは肥後の国岩戸と申す山に居住の僧にて候。さても此岩戸の観世音は。霊験殊勝の御事なれば。暫く参籠し処の致景を見るに。南西は海雲漫々として万古心の内なり。人稀にして慰多く。致景あつて郷里を去る。誠に住むべき霊地と思ひて。三年が間は居住仕つて候。
詞「ここに又百にも及ぶらんとおぼしき老女。毎日閼伽の水を汲みて来り候。今日も来りて候はゞ。いかなる者ぞと名を尋ねばやと思ひ候。
シテ次第「影白河の水汲めば。影白河の水汲めば。月も袂や濡らすらん。
サシ「それ籠鳥は雲を恋ひ。帰雁は友をしのぶ。人間もまたこれ同じ。貧家には親知少なく。賎しきには故人疎し。老悴衰へ形もなく。露命きはまつて霜葉に似たり。
下歌「流るゝ水のあはれ世のその理を汲みて知る。
上歌「こゝは処も白河の。こゝは処も白河の。水さへ深き其罪を。浮びやすると捨人に。値遇を運ぶ足引の。山下庵に着きにけり。山下庵に着きにけり。
詞「いつもの如く今日もまた御水あげて参りて候。

僧が老女に向かって名乗るようにいうと、自分は後撰集の歌の作者だと答える。その歌は、「年ふれば我が黒髪も白河のみつはぐむまで老いにけるかなと」というものであった。

ワキ「毎日老女の歩返す返すも痛はしうこそ候へ。
シテ「せめてはかやうの事にてこそ。少しの罪をも遁るべけれ。亡からん跡を。弔ひ給ひ候へ。
詞「明けなば又参り候ふべし御暇申し候はん。
ワキ「暫く。御身の名を名乗り給へ。
シテ「何と名を名乗れと候ふや。
ワキ「なか/\の事。
シテ「これは思もよらぬ仰かな。かの後撰集の歌に。年ふれば我が黒髪も白河の。
詞「みつはぐむまで老いにけるかなと。詠みしもわらはが歌なり。昔筑前の太宰府に。庵に桧垣しつらひて住みし白拍子。後には衰へて此白河の辺に住みしなり。
ワキ「実にさる事を聞きしなり。その白河の庵のあたりを。藤原の興範通りし時。
シテ「水やあると乞はせ給ひし程に。その水汲みて参らするとて。
ワキ「みづはくむとは。
シテ「よみしなり。
地「そもみづはくむと申すは。そもみづはくむと申すは。唯白河の水にはなし。老いて屈める姿をばみつはぐむと申すなり。そのしるしをも見給はゞ。かの白河の辺にて。我が跡弔ひてたび給へと夕まぐれして。失せにけり夕まぐれして失せにけり。

老女が藁谷の中に隠れ入って中入りとなるあいだ、間狂言が老女が実は白拍子のなれの果てだと説明する。また、その白拍子と藤原興範のなれそめについても細かく語る。間狂言が去ると、ワキが待謡を謡う。

ワキ詞「さては古の桧垣の女仮に現れ。我に言葉をかはしけるぞや。一つは末世の奇特ぞと。思ひながらも尋ね行けば。
歌「不思議や早く日も暮れて。不思議や早く日も暮れて。河霧深く立ちこもる。陰に庵の燈の。ほのかに見ゆる。不思議さよほのかに見ゆる不思議さよ。 

そこに、老女の幽霊が現れる。

後シテ「あら有難の弔やな。あら有難の弔やな。風緑野に収つて煙条直し。雲岸頭に定まつて月桂円なり。朝に紅顔あつて。世路に楽むといへども。
地「夕には白骨となつて郊原に朽ちぬ。
シテ「有為の有様。
地「無常のまこと。
シテ「誰か生死の理を論ぜざる。
地「いつを限る習ぞや。老少といつぱ分別なし。変るを以て期とせり誰か必滅を。期せざらん誰かはこれを期せざらん。 

幽霊と僧の間でやり取りが交わされる。僧は弔いをしてやろうと持ち掛ける。

ワキ「不思議やな声を聞けばありつる人なり。同じくは姿を現し給ふべし。御跡とひて参らせん。
シテ「さらば姿を現して。御僧の御法を受くべきなり。人にな現し給ひそとよ。ワキ「なか/\に人に現す事あるまじ。早々姿を見え給へ。
シテ「涙曇りの顔ばせは。それとも見えぬ衰を。誰白河のみつはぐむ。老の姿ぞ恥かしき。
ワキ「あら痛はしの御有様やな。今も執心の水を汲み。輪廻の姿見え給ふぞや。早々浮び給へ。
シテ詞「我古は舞女の誉世に勝れ。その罪深き故により。今も苦をみつ瀬河に。熱鉄の桶を荷ひ。猛火の釣瓶を提げて此水を汲む。其水湯となつて我が身を焼く事隙もなけれども。
詞「此程は御僧の値遇に引かれて。釣瓶はあれども猛火はなし。
ワキ「さらば因果の水を汲み。其執心を振り捨てゝ。とく/\浮び給ふべし。
シテ詞「いで/\さらば御僧のため。このかけ水を汲み乾さば。罪もや浅くなるべきと。
ワキ「思も深き小夜衣の。袂の露の玉だすき。
シテ「影白河の月の夜に。
ワキ「底澄む水を。
シテ「いざ汲まん。
地次第「釣瓶の水に影落ちて。袂を月や上るらん。 

ここでクリ・サシ・クセが入る。

地クリ「それ残星の鼎には北渓の水を汲み。後夜の炉には南嶺の。柴を焚く。
シテサシ「それ氷は水より出でて水よりも寒く。
地「青き事藍より出でて藍より深し。もとの憂き身の報ならば。今の苦去りもせで。
シテ「いや増さりぬる思の色。
地「紅の涙に身を焦がす。
クセ「釣瓶の懸縄繰り返し憂き古も。紅花の春のあした黄葉の秋の。夕暮も一日の夢と早なりぬ。紅顔の粧舞女のほまれもいとせめて。さも美しき紅顔の。翡翠のかづら花しをれ。桂の眉も霜降りて。水にうつる面影老衰。影沈んで。緑に見えし黒髪は土水の藻屑塵芥。変りける。身の有様ぞ悲しき。実にやありし世を。思ひ出づればなつかしや。其白河の波かけし。
シテ「藤原の興範の。
地「そのいにしへの白拍子いま一節とありしかば。昔の花の袖今更色も麻衣。短き袖を返し得ぬ心ぞつらき陸奥の。けふの細布胸合はず。何とか白拍子その面影のあるべき。よし/\それとても。昔手馴れし舞なれば。舞はでも今は叶ふまじと。
シテ「興範しきりに宣へば。
地「浅ましながら麻の袖。露うち払ひ舞ひ出す。
シテ「桧垣の女の。
地「身の果を。 

ここで序ノ舞。舞が終わると一気にキリとなる。

シテ「水掬ぶ。釣瓶の縄の釣瓶の縄の。繰り返し。
地「昔に帰れ白河の波。白河の波白河の。
シテ「水のあはれを知る故に。これまで現れ出でたるなり。
地「運ぶ芦田鶴の。ねをこそ絶ゆれ浮草の。水は運びて参らする罪を浮べてたび給へ罪を浮べてたび給へ。






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