レビャートキンとレビャートキナ嬢:ドストエフスキー「悪霊」を読む

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レビャートキン大尉とその妹レビャートキナ嬢マリアは、小説「悪霊」の本筋にとって重要な人物ではない。ただし、主人公のニコライとは親密な関係にある。とくにマリアは、ニコライの妻である。ニコライはその事実を自分から世間に向かって公表せず、マリアのほうも、痴呆状態になってしまっており、ニコライを夫として認識できないでいる。兄のレビャートキンは、そんな妹をニコライとの絆をつなきとめておく人質みたいに扱っている。この二人は、小説の終わり近いところで殺されてしまうのであるが、それまでは、ニコライに付きまといながら、ニコライの人間性を浮かび上がらせる役目を果たし続ける。要するにニコライという人物にとっての写し鏡のような存在なのである。

ニコライがマリアと結婚したのはスイスにいた時のことである。その辺のいきさつは、小説から除外された「スタヴローギンの告白」の中で詳しく書かれている。現存のテクストでは、それとなく触れられているだけである。ともあれ二人はその後ロシアにもどり、シャートフらと同じアパートに住んでいる。時折スタヴローギンから金をもらっているが、だいたいは文無しの状態である。レビャートキンは大酒のみで、金がはいるとすぐに飲んでしまうのだ。

レビャートキンは、ガサツな人間で、無教養であり、自分の考えも持っていないので、小説のなかで気の利いた振る舞いはできない。ただ、詩を書くという変な趣味があって、その趣味をラヴレターの作成に活用する。レビャートキンは、リザヴェータにすっかり惚れ込んでしまい、彼女にラヴレターを書くのだ。無教養な男だから、女をうっとりさせるような文章は書けず、かえって女を警戒させるだけである。

そんなわけで、レビャートキンが活躍する場面はほとんどないのであるが、ひとつだけ、活躍する場面がある。レンプケ夫人が催した大パーティーの場面で、変な詩を朗読するのだ。その詩の作成にはリプーチンも加わっており、リベラリズムの思想が盛り込まれている。だが、支離滅裂な内容で、人の理解を期待できるような代物ではない。かれの果たした役割は、ただただパーティーをぶち壊しにするのに大いに貢献したということだけである。

レビャートキンは、頭の狂った妹にしょっちゅう暴力を加えている。そんな兄を妹は頭から馬鹿にしている。シャートフが彼女に向かって「兄貴と一緒にいてたのしいかい?」と聞くと、こういうのだ。「あんた、レビャートキンのことを言ってるの? あれはわたしの下男よ。あんなやつ、ここにいようといまいと、わたしには関係なし。私がね、一声、『レビャートキン、水を持ってきなさい、レビャートキン、靴をもちなさい』ってどやしつけてやるとね、さっそく駆け出すわ。どうかするとまちがえることもあってね、見ているとおかしくて」(江川卓訳)。

そんな彼女の異常な態度をシャートフは見抜いている。「自分に話しかけらえているのでなければ、この女はすぐに聞くのをやめて、たちまちころりと自分の空想にふけりだすんだから、ほんとにころりとですよ。大変な空想家でしてね、朝からぶっとおし、八時間でも一つところに座ってますよ」と語り手に向かって解説するのだ。

そんなマリアをニコライは、自分の正式の妻だと、世間に向かって公表する気になる。すくなくとも、マヴリーキーにはその事実を話す。だが、彼女を妻とする考えは捨てる。彼女は完全に狂ってしまっており、人間的な生き方は望めないと考えたからだ。だからといって、ぼろのように捨てるわけにはいかない。そこで、もう一度修道院に入る気はないかともちかける。だが彼女は拒絶する。自分を捨てようとする意志を感じたからだ。しかも彼女は、目の前にいるニコライをかつての自分の愛人だったとは認識できない。自分の愛人は公爵だったが、ニコライはその公爵ではない。では公爵はどこにいったのか。お前が殺したのか、とニコライに詰め寄るざまである。

ニコライが、自分こそあなたの夫なんだとくりかえすと、マリアは言うのだ。おまえはあの人じゃない、「わたしの鷹は、どんな上流のお嬢さんの前だって、わたしのことを恥ずかしがったりするはずがない!」

ニコライはそんなマリアのことを、「ええ、この白痴女め」と言って、彼女とこれ以上かかわるのをやめる。彼女は兄と一緒に殺されてしまうのだが、そのこと(殺されようとしていること)をニコライは知っていながら、やめさせることをしなかった。レビャートキンに大金が入ったことをかぎつけたフェージカが、かれらを殺して奪うつもりでいることをニコライは察知しながら、フェージカをそのまま野放しにしたのである。

この小説の中でのマリア・レビャートキナの存在は、ニコライの人間性の酷薄な面を浮かび上がらせるためにあるようなものである。一方兄のレビャートキンは、マリアの置かれた境遇の悲惨さを強調するための引き立て役に徹しているように思える。だから彼らは、殺された後は、小説の中でさえ、生きていた痕跡をまったく残さないのである。

なお、マリアはかつて子供を産んだことがあるとリザヴェータに話している。彼女が子供を産んだという話は、その場面で出てくるだけなので、ほんとにあったことなのか、それとも彼女の幻想にすぎないのか、読者には判断がつかない。ニコライもそんなことは匂わせていないからだ。ニコライが子供を産ませたのは、シャートフの妻マリーだけだということになっている。大体この小説は、語り手が小説の中の登場人物に設定されいてるおかげで、語り口が自由ではなく、したがってすべての事実が語られるわけではないのである。





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