表象=再現前化批判:ドゥルーズ「差異と反復」を読む

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「差異と反復」の結論部分のタイトルは、ずばり「差異と反復」である。このタイトルを用いることによってドゥルーズは、この書物の目的を改めて確認しているわけである。その目的とは、西洋哲学の伝統を形成してきた形而上学を根本的に批判し、それに代わるものを提示するというものだった。形而上学の根本的な批判は、「表象=再現前化批判」という形をとり、新しい哲学は「永遠回帰」の思想という形をとる。そうすることでドゥルーズは、ニーチェこそが新たな時代の哲学にとっての導きの星であると位置付けるのだ。

まず、「表象=再現前化批判」について。「表象=再現前化」とは、同一性にもとづく思想である。プラトンのイデアの思想がその原型である。自己同一的なイデアが、自己のうちから差異をばらまくことによって多様な現象が生じるというのが、イデア思想の基本的な内実である。そのイデア思想の核心である同一性の考えを、プラトン以後の西洋の伝統的な哲学は受け継いできた。西洋の伝統哲学をドゥルーズは「形而上学」と呼び、それの解体を叫ぶのである。その際に、「表象=再現前化」の批判がターゲットとなるのは当然のことなのだ。

ドゥルーズは同一性を、四つの下位概念に分けて論じる。「概念における同一性、述語における対立、判断における類比、知覚における類似」(財津理訳)である。これら四つの概念を逐一検討しながらドゥルーズは、同一性へのこだわりが差異の意義を正当に評価せず、そのため、差異の持つ多様性を理解できずに、世界についての貧しいイメージしか持てないと批判するのである。そのイメージは徹底的に道徳的なものであり、したがってあるバイアスを帯びたものである。そのバイアスが、世界の見方を貧しくさせるというのである。

そのバイアスのことをドゥルーズは「錯覚」と呼んでいる。同一生にこだわるあまり、我々は対象的な世界や自分自身について錯覚をいだくというのである。その錯覚が差異を見えなくさせている。世界はそもそも差異に満ちた多様体であるのに、この錯覚があるために、代わり映えのしない単調なものとして映るのだ。

その錯覚は、差異を見えなくさせるばかりでなく、反復をも裏切るとドゥルーズは言う。反復は本来多様なものの反復であるのに、絶対的に同じであるものが反復するあるいは反復されると言われるのである。同一のものが繰り返されるからこそ反復なのであり、差異のある者同士の前後関係は反復とはいわない、というのが伝統的な哲学の考えなのである。

それに対してドゥルーズは、反復本来の意味を定義するについて、デモクリトスを持ち出す。「デモクリトスがパルメニデスの<存在~一>を粉砕し、もろもろのアトモン(原子)として多様化したように、反復は同一性それ自身を粉砕するのだ・・・同一的なものの粉砕もしくは最小のものの反復という、反復のモデルは、純然たる物質と一体をなしているのである」。

ドゥルーズが、ここでデモクリトスを持ちだしたのは、差異とか反復を精神的な原理で説明することを拒否し、差異と反復をその本来の形で捉えたいとする思惑があるからだろう。差異や反復が物質のもつ属性だとすれば、そこには精神的な意味での必然性はない。精神的な見地からは、物質の運動は偶然性に左右されていると見える。その偶然性をドゥルーズは逆手にとって、反復は差異が偶然に反復するのであって、したがってそこに同一性とか因果関係といった精神的な原理を持ち込む必要はないと主張するのである。

この部分でドゥルーズは、賭けの偶然性とか理由としての根拠といった事柄に言及しているが、それは、差異や反復の偶然性についての考えを補強するためである。ある事象について、かならずそれには根拠があるという考えは、ライプニッツがスマートに定式化したものだが、そのことでドゥルーズはライプニッツを批判する。事象というものは、そのありのままの姿で受け取るべきものであり、それについて根拠を求めるというのは、余計であるばかりでなく、人間にとって有害な行為であるとドゥルーズは言うのである。

根拠に代わってドゥルーズが推奨するのは「無底」という言葉である。「無底」とは、文字通り根拠のないことを意味する。多様な現象は、その多様なままに受け取ればよいのであり、そこに同一性の原理を求めたり、根拠を求めたりするのはやめるべきだというわけである。

ということは、人間は余計なことは考えるべきではない、ということか。というより、人間はもともと考えるようにはできていないので、それが考えるときには、ちんぷんかんぷんなことを考えがちだとドゥルーズは言いたいらしい。実際彼は次のように言っているのである。「思考というものは、強制されやむを得ない場合にしか思考しない以上、また思考は、何もその思考を強制して思考させるようには仕向けないかぎり愚鈍なままである以上、その思考が思考するように強制するものはまた、愚劣の現実存在でもあるのではないか」。

だが、余計な思考であれ、思考しないでいられるように、人間はできているのだろうか。







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