花鏡その三 世阿弥の能楽論

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「花鏡」事書十二か条のうち第七条は「劫之入用心之事」。劫とは、長い修行の成果として位の上がること。その位の上がること、つまり年功を積むことを劫之入るといい、それについては用心すべきことがあるとする。修行にとっては、場所がものをいう。都にはいろいろ刺激があるので、田舎に比べれば上達に有利である。これを住劫という。都にいながら、上手の人も年をとれば古臭くなることがある。都の人は目利きが多いので、上手の仕損じを見抜くからである。

次に、「万能綰一心事」。これは万能を一心に綰(つな)ぐ、と読む。すべてのわざを心ひとつにつなぎ止め、かつ、その心を見破られないように工夫することである。具体的には、「せぬところが面白き」というように、身の技の隙間にも心を配るというような意味である。しかもその心を人に気づかれてはならぬ。気づかれてはわざとらしく思われる。

次に、「妙所之事」。妙とは「形なき姿」をいう。わかりにくい表現であるが、名人の芸境をさしているようである。そのことは次のような言葉から推測できる。「能を窮め、勘能そのものになりて、闌けたる位のやすきところに入りふして、なすところの態に少しもかかはらで、無心・無風の位に至る見風、妙所に近きところにてやあるべき」。

次に、「批判之事」。能の批判と言っても、人によって好みはまちまちだから、万人にあてはまるような基準はないが、と断ったうえで、能の現場にそって、よくできた能とそうではない能との区別ぐらいはできたいものだという。そこで能の出来栄えを批判するうえで、能の種類による相違が問題となる。能の種類とは、ここでは、見・聞・心に従って分類される。見の能とは、見た目に華やかな能、聞の能とは、音曲が主体の能、心の能とは、見た目の派手さや音曲の優雅さはなくとも心にしみいるような能をいう。こう言ったうえで、批判の落としどころとして、次のような格言めいた言葉が紹介される。「出来庭を忘れて能を見よ。能を忘れて為手を見よ。為手を忘れて心を見よ。心を忘れて能を見よ」。

次に、「音習道之事」。これは謡曲についての心得である。それも、謡曲を作る人、謡曲を謡う人の、それぞれにとっての注意点をあげる。謡曲を作る人は、節についての理解を深め、言葉の続き具合に意を用いるべきである。謡曲を謡う人は、正しい節付けをし、言葉を明瞭に発音すべきである。そのうえで、「文字移りの美しく、清濁の節に似合ひたるが、かかりにはなるなり。節は形木、かかりは文字移り、曲は心なり」とする。また、稽古に際しては、「声を忘れて節を知れ節を忘れて調子を知れ・調子を忘れて拍子を知れ」という。

最後は「奥書」である。これは「花鏡」全巻のまとめのような位置づけである。花鏡の意図したことは、「能を知るよりほかのことなし」、つまり能を知ることであるとしたうえで、「能は若年より老後まで、習ひ通るべし」と結論付ける。能は生涯稽古の連続だというのである。そして、生涯を通じて「初心忘るべからず」という言葉を胸に収めておくべきだという。初心には三つある。是非の初心、時々の初心、老後の初心である。是非と時々はともかく、老後にも初心があるとはどういうことか。それについては、以下のように説明される。「命には終はりあり、能には果てあるべからず。その時分時分の一体一体を習ひわたりて、また老後の風体に似合ふことを習ふは、老後の初心なり」。つまり、人間は死ぬまで初心を忘れるべきではないというのである。「さるほどに一期初心を忘れずして過ぐれば、上がる位を入舞にして、つひに能下がらず」というわけである。






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