看経 正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第三十は「看経」の巻。看経とは経を読むことをいう。経を読むことの修行上の意義は何か、また、実際に看経の儀式をするときはどのように行うべきかについて説かれる。道元は、看経そのものにはたいした意義を認めていないというふうに、普通は受け取られている。しかしそれは、お経の字面だけを読んでも意味がないので、お経の真に意味するところを感得すべきだということを意味している。お経に込められた仏祖たちの真の教えを体得することが看経の意義だというのである。

巻は次のような言葉で始まる。「阿耨多羅三藐三菩提の修證、あるいは知識をもちゐ、あるいは經卷をもちゐる。知識といふは、全自己の佛なり。經卷といふは、全自己の經卷なり。全佛祖の自己、全經卷の自己なるがゆゑにかくのごとくなり。自己と稱ずといへども我你の拘牽にあらず。これ活眼睛なり、活拳頭なり」。修行には悟りを得た師によるものと、経巻によるものとがある。この場合、経巻はただ文字の書かれたものだと考えてはならない。そこに自分の生き方が示されているのだと思わねばならない。とはいっても、その自己は、私と汝の関係ではない。絶対的な自己である。そのような自己が、経巻の中に示されていると考えねばならない。

この言葉からは、経巻を軽んじているのではなく、経巻の読み方に気をつけよという指示が伝わってくる。ただ字面を読んでいたのでは、お経を読んだことにはならない。お経のなかに仏の教えを見るべきである、ということだ。

それゆえ、「佛祖にあらざれば、經卷を見聞・讀誦・解義せず。佛祖參學より、かつかつ經卷を參學するなり」ということになる。経巻の意義をわかるのは仏祖のみである。だから、仏祖について参学してはじめて経巻の意義を参学できる。

これに続く部分で、「心迷は法華に轉ぜられ、心悟は法華を轉ず」という言葉が出てくるが、これは修行が不十分で心に迷いがあれば、法華経を読んでも役に立たず、心がさとりを得ていれば法華経をよく会得できるというのである。

こんなわけだから、お経の字面だけを読んでも、それはお経を本当に読んだことにはならない。そのことの例証としていくつかの逸話が語られる。趙州觀音院眞際大師に一老婆が浄財を施して大蔵経を転ずるように頼んだところ、大師は座を降りて一周し看経が終わったと述べた。また、益州大隋山神照大師も、一老婆からの同じような依頼に対して、同じような対応をした。老婆は不本意であったが、看経とはただお経の字面を読むことを旨とするのではないということを、示したものなのである。

高祖洞山悟本大師も別の者を相手に同じようなことをした。また、曩祖藥山弘道大師は、日頃弟子たちに看経を許さなかったのに、ある時自ら看経した。といっても、書物を目の前にかざしたのである。それが看経しているように弟子には見えたのである。そのわけを聞かれると、自分はお経の本で目をふさいだだけなのだと答えた。だが目をふさぐというのは、目が明らかなひとにしてできることである。

冶父道川禪師は、お経について、「白紙上邊書墨字、請君開眼目前觀」と言った。これは、お経は字が書いてあるだけで、これを真に読むには心の目で見ねばならぬという意味である。

雲居山弘覺大師は、維摩経を読んでいる僧に向かって、どんなお経を読んでいるのかとたずねた。僧が維摩経です、と答えると、わしはそんなことを聞いているのではない、維摩経を読むこととでどんな真理を会得できたかと聞いたのだと言った。そのことを踏まえて道元は、「おほよそ看經は、盡佛祖を把拈しあつめて、眼睛として看經するなり。正當恁麼時、たちまちに佛祖作佛し、説法し、説佛し、佛作するなり。この看經の時節にあらざれば、佛の頂面目いまだあらざるなり」と説いている。

続いて看経の儀即について述べる。施主の依頼による看経、僧が自ら発心しての看経、亡僧のためにする看経などがある。「雲堂裡看經のとき、揚聲してよまず、低聲によむ。あるいは經卷をひらきて文字をみるのみなり。句讀におよばず、看經するのみなり」といい、看経に用いるお経は、「金剛般若經、法華經普門品、安樂行品、金光明經等」という。






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