ナンセンスについて:ドゥルーズ「意味の論理学」を読む

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ナンセンスは、日本語では無意味と訳されるように、意味と深いかかわりをもっている。そんなわけで、意味について考察する「意味の論理学」にとっては、もっとも重要な意義を持つ概念である。そこで、ナンセンスという言葉の厳密な定義が問題となる。普通それは無意味なこと、つまり意味の不在と受け取られている。ところがドゥルーズは、ナンセンスは意味の不在なのではなく、逆に意味の過剰なのだと言う。どういうことか。ある言葉の意味は、かならず他の言葉によって説明される。たとえば、岩とは大きな石のことであるとか、石とは小さな岩であるといった具合である。それに対してナンセンスとは、言葉の意味がほかの言葉によってではなく、それ自体によって説明されるような事態をさしている、とドゥルーズは言う。「石は石である」とか、「岩は岩である」といった具合に。これを他の言葉であらわすと自己言及という。自己言及という言葉をドゥルーズは使っていないが、要するにそういうことだ。

しかし、自己言及と意味の過剰とは別のことがらではないのか、という疑問がおきる。自己言及はむしろ意味の過少なのではないか。ドゥルーズは、言語についてもセリーの概念を用いて説明する。それによれば、ある言葉の意味がほかの言葉で説明されるというのは、意味するものとしてのシニフィアンが、意味されるものとしてのシニフィエと結びつくということだ。その場合、一つのシニフィアンに複数のシニフィエが結びつく。これはシニフィアンのセリーの中の特定の言葉が、シニフィエのセリーの多数の言葉と対応しているということである。逆の場合も考えられる。シニフィエのセリーの中の特定の言葉が、シニフィアンのセリーの多数の言葉と結びつく場合もある。その場合には、同じ一つの事象が多数の名で呼ばれることになろう。ところで自己言及においては、シニフィアンとシニフィエとが常に同じ言葉で表されるわけだから、名前はいつも一つであり、したがって意味の過剰ではなく、意味の限定と言えるのではないか。限定は、過剰に比較すると過少のように見える。

以上の議論に関連して、意味作用をセリーの観点から見直すことができよう、意味作用とはシニフィアンとシニフィエの関係である。ということは、シニフィアンのセリーとシニフィエのセリーが互いに共鳴しあう事態をさす。これは共鳴であるから、互いに一致・対応するものを含んでいなければならない。馬というシニフィアンには、走るとか、いななくとか、人を乗せるといったシニフィエが対応するが、翼があるとか、水中を泳ぐといったシニフィエは対応しない。したがってそのような内容の言葉は意味をなさないという点で、ナンセンスな言葉ということになる。どうやらドゥルーズの本意は、セリー相互の非対応な事態をさしてナンセンスと呼ぶことにあるようだ。

ナンセンスだからと言って、意味がないということにはならない、とドゥルーズは考える。ナンセンスにも意味があるのだ。たとえば翼を持った馬という言葉は、ナンセンスではあるが、意味はもっている。だからわれわれはそうした事象を表象することができる。一方、四角い円という言葉は、全く意味を欠いていると思われる。じっさいどんな器用な人でも、四角い円を表象することはできない。いずれにしても、意味作用とそれを成立させる意味について考えるうえで、ナンセンスは欠かせないとドゥルーズは考えるのである。

いずれにしても、意味作用というのは、特定のシニフィアンに、シニフィエのセリーから選んだ特定の構成要素を結びつけることである。その結びつきは限定的なものではなく、無限に多様だとドゥルーズは考える。というのは、シニフィエのセリー自体が無限に開かれているからである。プラトン的な考えでは、イデアに対応する現象は有限である。我々は現象をイデアのコピーとみなすからだ。イデアは永遠不変なものであるから、一定の限界を持たねばならない。それはものごとの本質なのであるから、確定された限界を持たねばならないのである。だからわれわれは物事の本質を発見するということになる。ソクラテスなら想起というであろう。だが、それは誤った見方だとドゥルーズ考える。意味は発見するものではなく、生産すべきものなのである。どういうことか。

シニフィアンとシニフィエとの対応関係は固定したものではない。われわれは、一つのシニフィアンにさまざまなシニフィエを結びつけることができるし、その逆に、一つのシニフィエにさまざまなシニフィアンを結びつけることができる。その結びつきは限定されたものではなく、ほとんど無限なバリエーションを含む。なかにはナンセンスな結びつきがあるかもしれない。だが、何が有意味で何が無意味か、その境界はたえず動いている。その動揺、揺らめきが人間の意味作用を豊かにする。なにしろ意味は本質とは違って、発見されるものではなく生産すべきものなのだ。

意味の生産は、世界が豊かになることを、おそらく意味しているのだと思う。世界は意味を帯びているものであるから、その意味が際限なく生産されればその分豊かになるわけである。一つの言葉に、自己言及を除いてたった一つの意味しか対応していなければ、世界は味気ないものになってしまうだろう。言葉遊びは、地口にしても隠喩にしても、意味の多重性を利用している。その意味の多重性は、意味が新たに生産されることによって、かぎりなく豊かになっていく。

ところでこの書物は、ルイス・キャロルのアリスの冒険につよいこだわりを見せている。その理由は、アリスが言葉遊びの名人だからだ。アリスはカバン語とかだじゃれとか言葉遊びが好きである。その言葉遊びは、新たな意味の生産を伴っている。そのアリスの言葉遊びについては、別に稿をあらためて考察してみたいと思う。

最後に、意味とナンセンスとの関係についてのドゥルーズの総括的な表現を紹介したい。「ナンセンスがそれ自体の意味を語るというとき、我々はむしろ意味とナンセンスは、真偽の関係を写すものではありえない特別な関係、つまり、単なる排他関係とは考えられない関係をもっていると言いたいのである。これが意味の論理学の最も一般的な問題である」(岡田、宇波訳)。






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