神通 正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第三十五は「神通」の巻。神通は神通力ともいわれ、超自然的なことを行う能力というような意味で受け取られることが多いが、道元はそれを、仏教者にとっての日常茶飯事だという。この巻は「かくのごとくなる神通は、佛家の茶飯なり、諸佛いまに懈倦せざるなり」という言葉で始まっている。その意味は、これから取り上げる神通とは、仏教者にとっては日常茶飯事なのであり、仏たちが懈怠なく行ってきたものだということである。

普通の意味での神通、すなわち超自然的な能力としての神通は、本当の神通ではなく、小神通だと道元はいう。小神通とは、「いはゆる毛呑巨海、芥納須彌なり。また身上出水、身下出火等なり」。毛が大海を飲み込み、芥が須弥山を納め、頭上に水を出し、脚下に火を生じせしめるたぐいである。そんなことは本当の仏教とは無縁のことであって、小乗のともがらにふさわしいことである。

では、その日常茶飯事とは、具体的にはどのようなものか。道元は、大偽・仰山・香巌の三人の間でやりとりされた故事を手掛かりにしてそれを説明する。大偽が壁に向かって寝ているところに仰山が通りかかった。大偽は、自分は夢を見ていた、その夢を占ってくれと言ったところ、仰山は盆に入れた水と一本の手ぬぐいをもってきた。そこで大偽が水で顔を洗って手ぬぐいで拭いているところに香巌が通りかかった。大偽が香巌に向かって青山とのやりとりを語ると、香巌はそのやり取りを拝見していましたと答えたうえで、一椀の茶をさしあげた。それを大偽はほめて、舎利弗や目連よりも素晴らしいといった。

この故事によって道元は何が言いたいのか。神通というのは、大げさなことではなく、日常のなにげない動作のうちに表されていると言いたいのであろう。

次に、龐居士の言葉「神通竝妙用、運水及搬柴」を取り上げる。これは、神通の妙用は水を運んだり柴を運んだりするのと違いはない。日常のことを淡々と行うのが神通の本来のあり方なのだというのである。

また、洞山と雲巌とのやりとり。洞山が雲巌に向かって「神通の妙用とは何か」と問うたところ、雲巌は両手を合わせ洞山の前に立った。重ねて神通の妙用は何かと問われると、同じことをして去った。これについて道元は、神通というものはつねに変わらぬ日常茶飯事を実践することなのだと注釈している。

さらに、五通仙人の故事が語られる。五通仙人は、自分は五神通だが仏は六神通だという。ではその差の一神通はどこにあるのかと。それについて道元は、仙人のいう五つの神通と、仏の六神通とは全く違う。だからそれを比較するのはばかげていると批判する。

以上のことを受けた形で、仏の六神通とは何かについて説く。現象の世界にあって現象に惑わされず、声の世界にあって声に惑わされず、香の世界にあって香りに惑わされず、味の世界にあって味に惑わされず、触の世界にあって触に惑わされず、思想の世界にあって思想に惑わされない。それを六神通だというのである。もしそうだとすれば、六神通は般若経のいう空の世界に通じるものだということになる。この巻でも、それらしきことが強調されている。「眞佛無形、眞法無相」というのがそれである。真の仏は形のないもの、真の法は形相がないものという意味である。





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