ワーシンと自由思想家たち ドストエフスキー「未成年」を読む

| コメント(0)
小説「未成年」の出だし近いところで、アルカージーはクラフトと会う目的でデルガチョフの家に出かけていく。クラフトが彼のためにあずかっている書類を受け取るためである。そこには、何人かの青年たちが集まっていて、何やら議論していた。その議論にアルカージーも加わることになる。青年のなかにはクラフトのほかワーシンとか教師と綽名された者などがいて、それぞれ勝手なことを言っていた。その議論が、当時のロシアの青年世代をとらえていた自由思想を踏まえたものなのだ。自由思想を抱いた青年たちは、「悪霊」にも登場するが、この小説の中の青年たちは、「悪霊」の青年たちに比べ、いまひとつ迫力を感じさせない。アルカージーなどは、思想らしいものを持っていないのだが、そのアルカージーと比べてもたいした違いはないのである。

アルカージーがデルガチョフの家に入っていったとき、若者たちはロシアの惨めさについて議論していた。クラフトがロシア人は二流国民だという思想を披露し、それをめぐって賛否こもごもの議論をしていたのだった。賛成するものは、ロシア人は「二流の国民であり、その使命はより高尚な国民のために単に材料となることであって、人類の運命において自分の自主的な役割というものを持っていない」(工藤訳)と言う。反対するものも、ロシアが二流国民だと決めつけることに反対しているわけではなく、二流国民ということに満足すべきだと言う。そうすれば馬鹿な愛国心から解放されると言うのである。いずれにしても、ロシアに否定的なところは共通している。

アルカージーがその議論に加わったのは、クラフトの主張にワーシンが疑問を呈したことに促されてのことだった。ワーシンはクラフトの議論が論理的ではなく感情的だという点を突いたのだったが、どういうわけかアルカージーはそれに促されて、突然しゃべりたくなったのだ。だがアルカージーはワーシンの言うことに納得したわけではなく、人間は感情的にならざるを得ないということを言いたかったのである。かれがそう思うのは、未成年者として、論理的に考える習慣が身についておらず、感情的に行動しているからであろう。

かれらの議論にはたいした内容があるわけではない。面白いのは、アルカージーがそこに社会主義的な匂いを感じ取り、それに反発していることである。かれはこう言って彼らを批判するのである。「あなた方の望んでいるのは、共同の宿舎、共同の部屋、stricte necessaire(絶対実需品)、無神論、そして子供をはなした共同の妻~これがあなた方のフィナーレでしょう、ぼくは知っているんですよ」。かれらはそんなことを議論していたわけではなく、単にロシアのみじめさを嘆いていたのであるから、こう受け取ったのはアルカージーの勇み足なのである。

そんなアルカージーにある皮肉屋が声をかける。「失礼ですが、お名前をお聞かせいただけませんでしょうか」と。それに対してアルカージーはこう答える、ドルゴルーキー、それもただのドルゴルーキー、元農奴マカール・ドルゴルーキーの息子で、元主人ヴェルシーロフの私生児だと。

デルガチョフの家を出た後、アルカージーはワーシンに話しかける。二人の間でヴェルシーロフのことが話題になる。ワーシンはヴェルシーロフを、傲慢であるが神を信じていると評する。彼が言うには、彼ら傲慢な人間は、「人間の前に頭を下げたくないから、神を選ぶ」のである。なおワーシンは、ステベリコフの甥ということもあり、その後もたびたび登場する。かれの言うことは、自由思想にかぶれていることを感じさせる。

この場面のあと、アルカージーはあらためてクラフトを訪ね、例の書類を受けとる。その書類が、小説の展開にとって重要な役割を果たすのである。ともあれクラフトは、「彼らを許してやりなさい」と言う。その上で、「彼らは他の人々に比べてばかでもありませんし、利口でもありません。彼らは~皆と同じように,狂気なのです」と言う。「今日、人々の中でいくらかましな者はみな~狂気なのです」と言うのである。

そのクラフトは、アルカージーに書類を渡すと、その日のうちに拳銃自殺してしまう。その理由は、小説の中では明らかにされていない。語り手のアルカージーに、それを追求する根気がないからだろう。

デルガチョフらの仲間は、後に官憲によって逮捕される。逮捕の具体的な理由は明らかにされていない。かれらの自由思想とか社会主義的な思想が、官憲の弾圧の網にかかったというような書きぶりである。

こんな具合に、この小説における自由思想家たちは、「悪霊」のそれに比べると、描写の仕方も中途半端だし、思想の内容も詳しく触れられているわけでもない。極めてぞんざいな扱い方である。






コメントする

アーカイブ