深川清掃事務所の思い出その二 落日贅言

| コメント(0)
深川清掃事務所に入所して一年後に、管理係長が人事異動で転出した。小生はこの係長を親父のように頼りにしていたので不安だったが、転出先は本局であり、一応栄転という形だったので、表向きは祝福してみせた。後日本局で会うことがあったが、非常に忙しそうにしていた。書類をもって廊下を走り回っている。緊急案件のために部長の決裁を求めているという。やがて部長の姿があらわれると、係長は犬のようにすりよっていった。部長が傲慢そうな表情を浮かべながら、書類を一瞥して決済の花押を印した。当時は花押で決済する習慣が残っていたのである。この部長にかぎらず、いわゆるお偉方には傲慢な人間が多かった。

管理係長の後任は共済組合から昇格というかたちで来た。Eという40台の男である。共済組合は職員数が少ないこともあり、昇任枠が限られているので、いつ内部昇任できるかわからない。そこで涙を呑んで清掃局に流れてきたのだと後日こぼしていたものだ。人柄は悪くはなかった。よく飲みにつれて行ってくれた。金離れがいいところがこの男の長点だが、それが後に災いのもととなった。この男はカメラの趣味を持っていて、毎年の年末年始休暇を利用してアフリカに撮影に行き、そこでとった動物写真を披露してくれたものだ。写真の中には女のヌードもあった。陰部がもろだしになったものもある。それを見た作業係長は、きれいな花びらが見えてますなといって、感心したものだ。この作業係長は、巨根の持ち主として所内で有名だった。所内には、作業でかいた汗を流すための入浴施設があり、それに作業係長も入ることがあったので、自慢の巨根を披露したのであろう。それを見た職員らは、まるで牛のようですといって驚いて見せた。

管理係長のほか、三人が新たに係員に加わった。高卒新規採用のN,交通局からきたO,この男は都電の運転手から事務に転職して局外へ放出されたのだった。当時は都電からバスへの切り替えが進んでいて、余剰となった都電の運転手を交通配転という名目で多局へ放出していた。清掃局にも大勢流れてきたそうである。三人目はAという四十がらみの女性。この女性は競馬組合にいたのだったが、美濃部都政が公営ギャンブルを廃止したことで、居場所がなくなり、都がその身分を引き取った。彼女もその一人として清掃局に流れてきたのである。なかなか気さくなひとで、まわりの男たちと猥談に興じたものだ。

新規採用のNは、素直な性格で、皆にかわいがられた。小生も気安く付き合い、丹沢へ一緒に沢登りにいったこともある。Nは只見の山奥の育ちなので、非常に敏捷である。沢登りなど朝飯前といった具合に、軽々と登っていく。まるで猿のようである。小生はときたまかれをからかうことがあり、その折に奥只見という言葉を使うと、かれは非常にいやがり、僕はただの只見ですと反論したものである。

二年目には担当職務替えがあり、小生は人事関係を受け持った。その仕事の中に公務災害補償事務があった。清掃という業務は、不自然な姿勢を強いられることが多い。そのため腰痛など怪我がたえない。いまでは袋収集が主流だが、当時の東京では、バケツ収集が行われていた。結構大きなバケツだと、生ごみをいっぱいいれるとかなりな重量になる。それを手でつかんで持ち上げる時に、腰や腕などを怪我するのである。小生の仕事は、作業員の立場に立って、かれらへの補償を確実に行うことだった。だから、本来本人が書くべき書類も、代わって書く。そうすることで、災害認定を確実に得るのである。民間を対象とした労災では、企業側が誠実な対応を取らない事例がけっこう多いそうだが、公務災害については、そういうことはなかったと思う。

深川清掃事務所は非常に狭い世界なので、そこで埋没していては、視野が広がらない。といっても、視野が広がるような機会はそうあるものではない。せめて同期の連中と飲み会をやって、互いに情報を交わすことくらいしかできない。小生の同期は、前にも述べたように二十数名である。三分の一は技術職だった。そのほとんどが埼玉大学の出身者だった。埼玉大学の学生がなぜ都庁に多く集まるのか、その理由はわからない。ともあれこの同期の連中と飲み会をやると、とことんはめをはずしたものだ。技術屋の連中にはザックバランな性格の男が多く、そのザックバランさを発揮して春歌を披露したものだ。「じゃっきばりばりぶらぶら」で始まる歌などは、あまりにも卑猥でとても言及できる代物ではない。まじめな歌を歌う者もいた。柴又の事務所にいる男はせりふ入りで「男はつらいよ」を歌った。仙台出身の男は「哀愁列車」を歌った。その歌がなにかと心に染みるので、君も故郷に恋人を残してきたのかねと聞いたほどだ。いやぼくは東北人の気持ちを代弁して歌ったまでで、自分自身は恋人を東京に連れてきたさ、とかれは答えたものだ。

同期の中には女性も二人いた。そのうちの一人は、なかなか好感の持てるひとで、お近づきになりたいほどだったが、すでに婚約していて、一年とたたないうちにやめてしまった。夫に従って地方へいくということだった。もうひとりは、これは非常に勝気なひとで、下手にからかったりすると強烈なパンチを浴びせたものだ。同期の男の中にも彼女のパンチを食らったものがいるそうだ。

E管理係長が音頭をとって、三河の舘山寺温泉に職場旅行をしたことがあった。小生には深川清掃事務所での職場旅行の思い出はこれしかないので、おそらく最初で最後の職場旅行だったのだろう。清掃の仕事は週に一度しか休めぬので、集団での宿泊旅行を企画するのは難しいのである。宴会で飲み騒いだことくらいしか覚えていないが、翌日仲のよい作業員と浜名湖でボートを漕いだことを思い出す。その作業員は独身者で、事務所の宿直で年中寝泊りしていた。宿直には手当てがつくので、その手当をあてにして、ほかの人の分まで宿直するのである。ともあれ、湖でボートをこいでいるうち、ボートが思い通りにならないで、沖に流されていった。引き潮の圧力で流されるのである。小生は焦ったが、相棒は巨体の持ち主で力もあり、なんとか流れに逆らって岸にたどり着いた。もし力のないもの同士だったら、海まで流されたかもしれない。

清掃の現場の作業は、表向きは作業係が取り仕切ることになっているが、実際には、古参のボス格の作業員数名が分担し合って取り仕切っていた。現場指導のポストとしては作業長というものが制度化されていたが、これは名誉職的なものになっていて、古参のボスたちに依存する度合いが強いのである。この傾向は都心に近い事務所において特に顕著だった。周辺区の歴史の新しい事務所では、労働組合が仕切る場合もあると聞いた。

二年たった時点で、若い女性が事務所に配属されてきた。後にわが配偶者になる女性である。その女性とのことは、プライベートにわたることは公にしないという方針にしたがって、語らないことにする。ただ一つ、三年周期の移動時期にあたって、自分のかわりにその女性を移動させてほしいと所長に頼んだことについて触れたい。所長は、それでは君の異動時期が遅れることになるよと忠告してくれたが、彼女を優先してほしいといい、実際そのとおりになった。そこで配偶者となる女性はさる清掃工場に異動し、小生は深川清掃事務所に残った。

そんなわけで、同期のほとんどの者が三年で本局の部署に異動したのに対して、小生は深川清掃事務所に四年も在職することになった。そのかわりといってはなんだが、四年たっての異動先は総務部庶務課人事係だった。人事係は人気職場で、普通は本局の他の部署から移るものだった。小生がいきなりそこに異動できたのは、当時の人事係長に気に入られたからだ。お前のその竹を割ったような性格が気に入ったというのだ。

人事係には三年半在職した。人事係はかなりの規模で、任用担当2人、服務担当2人、給与担当2人、旅費支給担当1人のほか人事係長を含めて8人で構成されていた。そのほか組織管理担当2人と、現場の人事を担当する人事第二係というものがあった。小生は最初の3年間給与担当に従事した。当時の都の給与事務は、一部機械化されてはいたが、手書き処理の部分がかなりあり、事務量は多かったのである。出先事業所の給与担当と密接な関係があるので、出先の職員の事情には詳しくなった。

本局にいると、局長はじめ偉い人との接触が増える。偉い人の中で特に小生の印象に残っているのは、Mという局長だ。この人はさる有力な政治家の甥で、都議会議員との関係も深かった。非常に腰の低い人で、現場の作業員から届けられた年賀状にも、自筆で丁寧な返事を出した。そんなことはそう簡単にできるものではないと、深川の作業員たちも言っていたものだ。そんな人柄もあって、このMという人は、鈴木都知事によって最初に副知事に任命された。

人事係の事務自体は変化の乏しいものであった。だから、同僚と毎晩飲んだことくらいしか思い出がないが、一つ面白い思い出がある。清掃局では、糞尿の海洋投棄を行っていた。船につんだ糞尿を、大島と房州の野島崎を結ぶ線の外側で投棄するのだが、そのさいに、まんべんなく沈むように酸化鉄をまぜる。大部分はそれで沈むが、中には沈まずに黒潮に乗って流れるものもある。房総の浜辺に流れたら大事になるので、局では追跡調査というものを実施して、漂着状況の確認につとめていた。方法は簡単だ。糞尿の中にイチジク浣腸のセルロイドの容器を混ぜておくのである。セルロイドは軽いので沈まない。そのセルロイドがどれほど房総の浜辺に漂着しているか、その確認調査に一度立ち会ったことがあった。電車で上総一ノ宮までいき、そこから九十九里の浜辺を歩いた。するといちじく浣腸が落ちているのである。局で用意した浣腸には都のシンボルマークを刻してあるので、ひとめでわかる。それを拾い上げて、これはうちの浣腸だと言ったものである。

小生が人事係を去ったのは、昇任のためである。昭和54年の11月に若手対象の管理職選考に合格し、その年の12月に墨田区に転出したのだった。当時の都は、管理職への登用は競争試験によって行っていた。その試験選考には3種類あり、そのうちの若手を対象とした選考の合格者は、いきなり管理職に登用するのではなく、一定のローテーションを通じて育成するという方針をとっていた。そのローテーションの一環として、墨田区へ配属されたというわけである。ここで本音をいうと、小生は清掃局へのこだわりは持っていなかった。むしろ他の局の仕事をしたいと思っていた。それには若手対象の選考に合格するのが近道である。そんなわけで、小生は清掃局から出ることを目的にその若手選考を受けたようなものだった。だから清掃局から出られた時には、喜んだくらいなのである。今にして思えば、愚かなことではあった。





コメントする

アーカイブ