阿羅漢 正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第三十六は「阿羅漢」の巻。阿羅漢とは小乗の聖者のことをいう。大乗では伝統的に小乗を軽視し、その小乗の聖者である阿羅漢も、大乗の菩薩と比較して下に見るというのが普通であるが、道元はそうは見ない。阿羅漢も仏教の修行者としてそれなりに評価している。もっとも阿羅漢を以て、修行者の究極的な姿とは見ない。だが道元は、仏になったからといってそれに安住することをいましめ、仏の先の境地(仏向上事)を目指せといっているくらいだから、阿羅漢もその境地に安住していては堕落する、一層先の境地を目指すべきだと言いたいのだろうと思う。

その阿羅漢を道元はどう定義しているか。法華経序品の次の言葉によって定義する。「諸漏已盡、無復煩惱、逮得己利、盡諸有結、心得自在(諸漏已に盡き、復た煩惱無く、己利を逮得して、諸の有結を盡し、心自在を得たり)」。煩悩が尽き、自己の本来のあり方をとらえ、束縛を脱して、心が自在になった境地だというのである。それを道元は、「これ大阿羅漢なり、學佛者の極果なり。第四果となづく」と言っている。第四果とは、小乗における修行者の最高の境地をいう。

そのような阿羅漢は、「以佛道聲、令一切聞(佛道聲を以て、一切をして聞かしむ)」という。仏の教えをすべての存在に聞かせるというのであるから、それは菩薩とどこが異なるのか。菩薩もまた、仏の教えをすべての存在者に聞かせるのではないか。そのすべての存在者の中には、生き物だけではなく、国土草木も含まれるのではないか。

道元は、声聞経(小乗の経典)中に、「阿羅漢を稱じて、名づけて佛地となす」とあるのを取り上げ、「佛地を稱じて阿羅漢とする道理をも參學すべきなり」とまで言っているが、そこまで言うのであれば、菩薩とどこが違うのかという疑問が当然湧く。その疑問に道元は正面から答えていない。阿羅漢は阿羅漢なりにさらに修行をつめば、仏の教えに忠実となり、菩薩のような働きをするようになるであろうと、期待を表明するにとどまっているように見える。

菩薩の修行は永遠に続くもので、これで終わりということはなかった。それと同じように、阿羅漢の修行もこれで終わりということはない。修行に終わりがないということでは、菩薩も阿羅漢も同じである。そのことを道元は「實得阿羅漢は、是最後身、究竟涅槃にあらず、阿耨多羅三藐三菩提を志求するがゆゑに」と言っている。つまり本当の阿羅漢は、さとりの境地に達するべく終わりなき修行を続けねばならぬというのである。

道元の小乗に対する姿勢は、どちらかというと攻撃的ではなく、融和的である。その融和的な姿勢が、小乗の聖者である阿羅漢にも、一定の居場所を用意した、というのが、この巻の意義ではないか。






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