加藤周一の元禄文学論:日本文学史序説

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元禄時代は町人が興隆した時代である。町人というのは、徳川時代の身分秩序を前提とした言葉で、歴史的な普遍性を持っているわけではない。普遍性を感じさせる代替語があるとすれば、それは庶民とか大衆という言葉だろう。その庶民ないし大衆が、徳川時代前半の元禄時代になって始めて日本文化に大きな役割を果たすようになったといえる。その元禄時代の文学を代表する人物として加藤周一は、西鶴・芭蕉・近松をあげる。

この三人のうち、西鶴は大阪の商人出身だが、芭蕉と近松は武士の出身である。元禄時代に町人が台頭したといっても、かれらはまだ文化全体の担い手となるほどには成長していなかった。社会を動かしているのは武士であり、町人は武士による支配の対象たるにとどまっていた。町人が本格的に文化の担い手となるのは徳川時代後半以降のことである。元禄時代には、武士が文化の中心だった。その武士が作った文学作品を町人が享受していたということである。

元禄時代における文化の基本的な傾向は、徹底した此岸性だと加藤はいう。仏教などの教える超越的な価値は無視され、ひたすら現世利益を求めたというのである。こうした傾向をもっとも露骨に現わしていたのが西鶴だという。西鶴の文学の特徴を簡単にいうと性的快楽と金儲けの追及ということになる。じっさい西鶴の小説類のほとんどは男女の性的な結合をテーマにしており、また、時勢を論じた随筆類は金儲けをもっぱらのテーマにしていた。西鶴の小説類は時代の好みに応じて大評判となたが、加藤は時勢論のほうに西鶴らしさを強く認めている。西鶴の時勢論は、金儲け主義を反映して極端な能力主義を主張している。この考え方をつきつめれば、富めるものは自力で生きる努力家であり、貧乏人は馬鹿な怠け者ということになる。こうした見方は、裕福な商人の立場を反映したものであり、町人全体の共通意思を反映したものではない。西鶴は成功した上層商人の立場から、かれらの存在意義を擁護した、というふうに加藤はとらえている。日本人の自己責任意識はかなり強固なものがあるが、それを西鶴がもっとも早い時期に強調していたわけである。そういう意味では西鶴は、上層町民のイデオローグといってもよい。上層町民は、金儲けに成功した上に、その設けた金で性的快楽を追求できる。そうなると上層町民に体現された人間の生き方の理想は、性的快楽を堪能するということになろう。性的快楽こそが、あらゆるものを超えた至上の価値になるのである。加藤の見立てをとるならば、そういうことになるわけである。

芭蕉は、性的快楽とは無縁だったようだ。すくなくとも性的快楽を露骨に表現するようなことはしなかった。武士のメンタリティを持っていた芭蕉は、町人である西鶴のように性的快楽をあっけらかんと表現することがはばかられたのであろう。だが芭蕉もまた、快楽を重視する点では西鶴と共通していた。芭蕉の追求した快楽とは、芸術的な美である。芭蕉に至って初めて、芸術のための芸術という観念が現実性を帯びるようになった。平安時代にも、たとえば和歌の伝統のように、芸術のための芸術という言葉を使いたくなるような傾向が認められないではなかったが、庶民層を含めた日本文化が全体として「芸術のための芸術」を重視するようになったのは芭蕉の功績だと加藤はいう。その芸術のための芸術という思想を芭蕉は、平安時代の歌人(定家)からではなく利休から学んだのであろうといっている。その内実を詳しく見ると、一つには自然の発見、一つには自分に対する皮肉な態度ということになる。特に自然の発見は画期的なものだった。我々はふつう、日本人が自然好きだから芭蕉も自然を詠ったのだと思いがちだが、実はそうではなく、芭蕉が自然を詠んだから日本人が自然好きになったのだと加藤は言うのである。それが正しい見方だとすれば、芭蕉は日本人の美意識に決定的な影響を与えたということになる。

芭蕉は連歌から出てきた人間だが、近松にも連歌の影響を指摘できると加藤はいう。近松の道行文には、連歌と同じく、「句から句へとどこまでも続けながら、それぞれの瞬間の付句の味に、作者と読者の注意を集中させる」ところがあるというのである。その近松の浄瑠璃は、大別して世話物と時代物からなる。世話物のテーマは、同時代に起きた心中事件に取材したものなど、男女の恋愛と死をテーマにしていた。男女が激しい恋愛の末に死を選ぶというのは近松の世話物の大部分に共通するテーマであるが、そこでの死は、男女の恋愛を貫徹するための唯一の決断であり、そうした死は崇高な死として扱われる。死を崇高化するのは、「葉隠」における武士道と同じメンタリティによるものだが、「葉隠」の死と近松の死はいささか意味合いが違う。「葉隠」の死は、多分に機会主義的な匂いがあるが、近松の死は、やむに已まれぬ選択なのである。一方、時代物については、近松は世話物とはまったく異なる作風を示している。それを簡単にいうと、武士の立場から町人に説教するというものである。武士道徳を町人に押し付けるといってよい。近松が提示するその武士道徳は、きわめて浅はかなもので、たとえば「国姓爺合戦」に見られるように、外国を犬畜生の国として描くような偏狭な見方に毒されていた。だから時代物における近松は、程度の低いプロパガンディストということになろう。そんなわけだから、近松の作品のなかで読むに耐えるものは世話物だけということになる。





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