深田晃司「さようなら」:近未来の日本

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深田晃司の2015年の映画「さようなら」は、近未来の日本を舞台に、原子力で汚染された日本から人々が海外非難するという設定の作品だ。原子力による汚染は原発の爆発がもたらしたということになっている。おそらく福島原発事故を意識しているのであろう。だが、その程度の原発事故で、日本人の多くが海外避難するまでに追い込まれるというのは、どう考えても不自然であるから、この映画はいささか滑稽さをまぬがれない。

南アフリカから難民として日本にきたという白人女性を中心にして映画は展開していく。その女性は、人型ロボット(アンドロイド)とともに暮らしている。彼女も海外に避難したいと思っているが、なかなか順番が回ってこない。彼女は、自分は難民だから後回しにされているのだろうと思う。そんな彼女をアンドロイドが慰める。

彼女の周辺に何人かの人が現れる。恋人の若い男、中年の女、たまたま知り合った若い男女などだ。それらの人々も、何らかの事情で取り残されている。恋人は在日コリアンだから後回しなのだろうと思い、中年の女は子殺しの前科のために後回しなのだろうと思い、若い男女はつまらぬことで前科をもったおかげで後回しなのだろうと思う。それらの人々とのかかわりを淡々と描きながら映画は展開する。恋人は彼女を捨てて海外に避難し、中年女は家族を失ったことに絶望して焼身自殺し、若い男女は市役所に結婚届をする。

人々の大部分が避難し終えた時点で、海外非難プロジェクトは終了し、主人公の女性ターニャは取り残される。持病をもった彼女は、治療を受けることもできず、ゆっくりと死んでいく。死んだ彼女は緩やかに腐食し、ついには白骨と化す。後に残されたアンドロイドは、人気のない荒野をさすらううちに、車いすから転倒する。そして見上げた空を背景に、竹林におびただしい数の花が咲いているのを見る。その光景は、かねてターニャが見たいと思っていたものだった、というような内容である。

そんなわけで、とりとめのない印象を与える映画である。それは設定の不自然さによるのだろう。見どころは、アンドロイドの演技で、これは当時話題となっていた人型ロボットを採用したということだ。このロボットは、学習能力を備えており、一度経験したことは決して忘れず、また、人間の感情の動きをも学習する。その感情は自分の主人のものだから、アンドロイドは主人の人格のコピーのようなものでもある。それゆえ主人公の女性ターニャは、そのロボットとの対話を、自分自身との対話と受け取るのだ。

主人公のターニャが、ソファに横たわったまま息絶え、腐食を経て白骨と化す過程が、ゆっくりと映し出される。その白骨化した主人の顔(頭蓋骨)を手でなでるロボットの悲しみが伝わってくるのである。

なお、アンドロイドがターニャに向かってランボーの「酔いどれ船」を朗読するシーンがある。その日本語がやや時代遅れで、ランボーの雰囲気にあっていない。そこが残念だ。ここに拙訳を示して、いささかでも手がかりになればと思う。https://poesie.hix05.com/Rimbaud/15bateau.html





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