即心是仏:正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第五「即心是仏」の巻を道元が説示したのは延応元年(1239)道元満三十九歳の年である。奥書に、宇治の興聖宝林寺で示衆したとある。テーマは「即心是仏」である。これについて道元は、次のように説き始める。「仏々祖々、いまだまぬかれず保任しきたれるは即心是仏のみなり。しかあるを、西天には即心是仏なし、震旦にはじめてきけり。学者おほくあやまるによりて、将錯就錯せず。将錯就錯せざるゆゑに、おほく外道に零落す」。「即心是仏」は仏祖たちが代々伝えてきた仏教の根本思想であるが、インドにはその教えはなく、中国で初めて生まれたのだと言っている。おそらく、禅の始祖ダルマが中国へ来たことをきっかけに、禅の根本思想である「即心是仏」が中国に広まったと言いたいのであろう。ところがその教えを、中国の仏者といえども、正しく捉えているものは少なく、多くは間違った理解をしている。それを道元は外道といって排斥するのである。

外道に陥るのは、仏の教えを概念的に捉えようとするからだと道元は言う。「いはゆる即心の話をききて、癡人おもはくは、衆生の慮知念覚の未発菩提心なるを、すなはち仏とすとおもへり。これはかつて正師にあはざるによりてなり」と言うのであるが、「慮知念覚」と言っているのが概念的な理解ということであり、それでは菩提心は得られないとする。こういうことが起きるのは、仏の教えを単に知識としてとらえるに過ぎないからである。仏の教えを体現するためには、知識にたよらず、さとりを得た先人から直接指導を受ける必要がある、というのである。

ところで、その「即心是仏」とはいなかるものか。これは文字通りには、「心に即するのが仏である」とか、「即ち心が仏である」というふうに読める。どちらにしても、心と仏の関係について述べたものだ。その関係は、心と仏が相即の関係にあるということだろう。そこでさらに踏み込んで、ここで言われているところの「心」とか「仏」が何を意味しているかが問題となる。心については、後半の部分で「心とは山河大地なり、日月星辰なり」と言われている。これは心についての常識的な意味合いとはかなり違っている。心といえば、普通は人間の精神作用のようなものを思い浮かべるものだが、道元はここで、心とは山河大地・日月星辰だと言っている。つまり心とは現象界としての世界そのものだと言っているわけである。一方、「仏」については、ここでは仏性の意味で使われていると考えられる。とすると、仏もまたあらゆる存在、存在者の全体、つまり世界全体を意味しているということになるわけで、したがって世界の存在全体という点で、心と仏は同義だということになる。

こういう考えは、華厳経にある三界唯心の思想とか、唯識派の思想を思わせる。道元は、唯識派的な考えをかならずしも前面に押し出してはいないのだが、人間の精神界を宇宙の存在と深く結びつけて考えるところがあるので、ここでの議論もそうした姿勢が反映されているのかもしれない。

道元は、「即心是仏」の四文字をばらばらにしたうえで、それを「仏即是心」というふうに並べかえてもいるので、仏と心が同じものと考えていたことはほぼ間違いないと思う。その上で、三界唯心的な言葉を打ち出している。それは「一心一切法、一切法一心」というもので、とりおなおさず、一切の存在は心であり、心は一切の存在だという意味にほかならない。ここでの「一切法」が仏と同義なのはいうまでもない。

だからといって、道元が「仏」を抽象的な原理としてとらえているかといえば、かならずしもそんなに単純ではない。というのも道元は、仏を一切法と同義にみなしたうえで、その仏とは釈迦牟尼のことだと言っているからである。仏は単に抽象的な概念にはとどまらず、具体的な人格だと言っているわけである。というより、あらゆる存在についての真理が、釈迦牟尼という具体的な人物に体現されているということだろう。

この巻を道元は次のように結んでいる。「いはゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏これ即心是仏なり。過去現在未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり」。仏には諸仏あるが、それらはみな釈迦牟尼仏であり、その釈迦牟尼仏とは「即心是仏なり」と言っているのである。そのように言われると、釈迦牟尼仏に体現された仏とは、あらゆる存在の究極の真理だというふうに受け取れる。釈迦牟尼仏は真理そのものとしてイメージされているわけである。

なお、この巻は、大唐国大証国師慧忠和尚と、ある僧とのやりとりを踏まえている。大証国師慧忠和尚は馬祖道一のことである。このやりとりの面白いところは、僧が主張するところの「即心是仏」を、馬祖が逆手にとって、それを全く反対の意味に転嫁させていることである。僧は、人間はすでにして仏なのだから、それを認識するだけでよく、余計な修行をする必要はないと解釈しているのに対して、馬祖は、それは外道の考えだとたしなめているのである。





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