張楊(チャン・ヤン)監督の1999年の中国映画「こころの湯(洗澡)」は、北京の下町にある銭湯を舞台にした人情ドラマである。その銭湯は、知的障害の子ども(次男)を持つ父親が経営している。そこに長男が戻ってくる。長男は、弟の寄越したはがきが、父の危篤を知らせていると思ってもどってきたのだが、父親は元気だった。そこで帰ろうと思って航空券の手配等などしているうちに、なんとなく帰りそびれ、だらだらと居続ける。その間に、銭湯には周囲の顔なじみがやってきて、それぞれ自分の人生を引きずったようなやりとりをする。そのうち、父親は湯船の中で死んでしまう。知的障害を持った弟は自分一人では生きてはいけない。そこで、兄は弟の面倒を自分がみようと決意する。というような内容で、親子や兄弟の家族愛を中心にして、北京の下町で生きる庶民の人生模様を追いかけるというわけである。
北京の銭湯というのが、日本のそれと非常によく似ている。男女別になっていて、男女の境に番台がある。湯船も日本のそれとほぼ同じである。面白いのは、日本でかつてみられたサンスケの文化がまだ生きているということだ。これは、中国が日本の銭湯をまねたのか、それとも日本が中国の銭湯をまねたのか。
映画では、都市の再開発が進みつつあり、銭湯のある一帯は土地を召し上げらることになっている。それに対して地元の庶民は、あまり抵抗する様子がない。その再開発は、おそらく北京五輪の開催に合わせて実際に進行していた再開発の流れの一環だったのだろう。中国の土地所有は、原則国有ということになっており、庶民には日本のような堅固な土地所有権がないから、庶民は大した抵抗もなしに、土地を明け渡すのだと思う。
それはともかくとして、この映画が描きたかったのは、中国の庶民の濃密な人間関係なのではないか。なにしろこの映画に出てくる人々は、みな底抜けに善良であって、家族間のみならず、どんな人との間でも濃密な人間関係が成立している。他人の不幸は自分のそれでもあるといった具合に、みなそれぞれ助け合いながら生きている。こういう人間関係は、中国人の現実の姿を現しているのかどうかわからぬが、日本では、こんなに底抜けに善良な人間関係は、山田洋次の映画の世界を別にすれば、ほとんどみられないところである。
とにかく、心温まる映画である。
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