心不可得:正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第八は「心不可得」の巻。心不可得とは、心は得ようとして得られるものではない、という意味で、仏典の中では、金剛般若経に「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」という形で出てくる。過去・現在・未来の三世にわたって、心は得ようとして得られるものではない、というわけである。その場合、「心」という言葉で何を現わしているかが問題になるが、仏典からは明らかでない。道元自身はそれを「自家」と同義に解釈しているようだが、ここでの道元の意図は、言葉の解釈ではない。この言葉を一つのきっかけとして、僧のあるべき姿について語っているである。それを単純化して言うと、僧というものはいくら知識があっても僧としては半端であり、真の僧は修行を通じてさとりをめざすべきだということになる。

道元は、半端な僧の代表例として徳山宣鑑禅師をとりあげ、その姿勢を厳しく批判する。この巻は、その批判のために費やされているのである。徳山は金剛般若経をあきらめたと主張し、自ら周金剛王と称したが、それは自分の学識にうぬぼれていたからだった。しかしそんな学識は、いざというときに何の役にもたたない。その証拠に徳山は、無学な老婆にやり込められてしまった。その老婆がえらいとうわけではない、むしろ反対で、つまらぬ老婆に過ぎない。そのつまらぬ老婆にやり込められるのであるから、徳山の学識なるものが、いかに無益なものかわかろうというものだ、と道元は厳しく批判するのである。

そこで、徳山と老婆のやりとりが語られる。徳山が、たまたま出会った老婆に、あんたは何者かときくに、老婆は餅を売っていると答える。では売ってほしいというと、餅を買ってどうしようというのじゃというので、徳山は点心として食うのじゃと答える。すると老婆は、わしの質問に答えてくれたら売ってやろうと言う。その質問とは次のようなものだった。「わしはかつて金剛般若経の中に、過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得という経文があると聞いた。和尚さんは、これら三つの心のうちどれについて、餅を点じようというのか」。心不可得を点心にひっかけているわけで、老婆なりに洒落ているつもりなのだろう。ところが徳山はこの質問に答えられず、呆然自失してしまった。かれの学問は、餅一つ得られないほど浅はかなものだったわけだ。そのことを徳山自身痛感して、画餅では餓えはしのげない(学識では腹は満たせない)と思ったのであった。

このやりとりについて道元は、徳山を笑う一方で、老婆を褒めるわけではない。かえってその無学を軽蔑しているくらいである。老婆に多少の機転があれば、もっとひどく徳山をとっちめることができただろう。だが老婆にはそんな機転はなく、餅を売らずに立ち去っただけである。つまり徳山も老婆も、目くそ鼻くそのように代わり映えのしない立場なのである。

このやりとりをめぐって道元の言いたかったことは、仏道は学識によって極められるものではなく、実践的な修行によって極めるべきだということである。学識のみを以てしては何も得られない。そのことを道元は、この巻の最後のところで、次のように表現している。「おほよそ心不可得とは、画餅一枚を買弄して、一口に咬著嚼著するをいふ」と。絵にかいた餅を食っても腹の足しにはならぬ、それを心不可得というのだ、ということであろう。だから「心不可得」という表題は、学識を以てしても何も得るところがないというネガティブな意味合いが込められているということができよう。それを以て、なにか積極的な思想を表明しているわけではない。






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