2001年のアメリカ映画「アイ・アム・サム(I am Sam ジェシー・ネルソン監督)」は、精神薄弱者の子供に対する養育権をテーマにした作品。アメリカは、児童の権利を守るとして、子供の養育能力に欠けるとみなされるものから、子供を引きはがす文化が普及しているらしく、この映画はそうしたアメリカの文化に一定の批判を加えたもののようである。だが、何が言いたいのかよくわからぬ不徹底さがある。子供の立場に立っているのか、精神薄弱者の親にも言い分があるといいたいのか、どうもよくわからぬのである。
七歳程度の知能しかもたぬ父親が、娘を一人で育ててきた。その娘が七歳になったときに、児童福祉当局が、父親には養育する能力がないと判断して、娘を父親からはがそうとする。アメリカは一応法治国家を標榜しているから、乱暴な手段で父娘を引き離すわけにはいかない。裁判所が介入する。父親は、裁判を有利に運ぼうと思い、ある女性弁護士にアタックする。その女性弁護士は、当初は相手にしなかったが、ひょんなことから弁護をすることになる。
かくして、父親の養育権をめぐって裁判が始まる。色々なやり取りがあったあげく、父親は娘の養育権を失い、娘はほかの人間の里子に出される。しかし娘は父親が恋しくてたまらず、里親の家を抜け出ては、父親にあいにいく。それを見た里親は、父娘のきずなの強さに感心し、父親に対して娘に頻繁に面会する権利を保障することで、解決をはかる、というような内容である。
要するに、娘の権利も保証され、父親の気持ちも尊重されたというかたちで、妥協をはかった形になっているわけである。そんな妥協が現実になりたつのかどうか。映画はそんなことには無頓着だ。
全編を通じてビートルズの曲が流れる。そのうちの一曲「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンド」は、娘の名ルーシーのヒントとなったものである。
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