フロイトとエクリチュールの舞台:デリダ「エクリチュールと差異」

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「エクリチュールと差異」の第七論文「フロイトとエクリチュールの舞台」は、デリダ自身のエクリチュール論の文脈において、フロイトを論じたものである。デリダのエクリチュール論は、ソシュールの構造言語学を踏まえている。だが大きな改変を加えてある。ソシュールはエクリチュールをパロールとの対立関係で論じ、パロール(発話)を根源的な言語活動とし、エクリチュール(書記)を従属的なものとした。エクリチュールはパロールの内容を文字の形で定着したものであって、それ自体独立したものではない、というのがソシュールの考えだった。それに対してデリダは、エクリチュールのパロールからの独立性を強調する。エクリチュールは単にパロールをそのまま書記するのではなく、それ自体の構造をもっており、その構造がかえってパロールを制約することもある、と考えたのであった。

そのエクリチュールがフロイトとどんなかかわりがあるのか。フロイト自身「エクリチュール」などという言葉は使っておらず、自分の学説を言語学と関連付けるようなことはしなかった。にもかかわらずデリダは、フロイトのある分野の説を、言語学の理論を応用しながら読み解こうとするのである。

デリダが着目するのは、夢についてのフロイトの説である。フロイトは夢を単に従前の経験が反復されたものだというふうには考えず、したがって夢を意識されたものの反復であり、意識内容に従属するものだとは考えずに、それ自体独自の構造をもった、自立した現象だと考えた。そこにデリダは、かれの言語論に類似するものを認めたのだった。フロイトのいう意識活動としての心的体験と、無意識の活動としての夢との間の関係を、パロールとエクリチュールの対立関係に対比させたのである。

夢についてのフロイトの説は結構複雑である。それをデリダは思い切り単純化して、自分自身のエクリチュール論に接続する。性欲とか抑圧といった夢の起源にかかわる議論は一切省略される。夢が問題になるのは、それが独自の構造を持っているという点においてである。その構造をデリダは、古代エジプトのヒエログラフにたとえる。ヒエログラフは、いちおう表意文字ということになっている。単に言葉の音を表現するだけにとどまらず、文字の形自体に意味が隠され、その意味全体が一つの体系を形成している。夢はそのヒエログラフに類似しているわけであるから、ヒエログラフの読み取りの技術が、夢の解読にも応用できるにちがいない。そうデリダは考え、表意文字としてのヒエログラフのエクリチュールの機能を、夢の果たす機能に応用するのである。

そうすることでデリダは、何を言おうとしているのか。デリダはフロイトの次のような言葉を引用する。「わたしの理論の本質的な新しさは、記憶が一度だけ現前するものではなく、反復されるものだという主張、記憶は様々に異なった記号で書き綴られているのだという主張にあるのです」。ここからデリダは、記憶はエクリチュールとしての記号の体系に似ているというふうにフロイトが考えていたと結論する。その上で、「夢はエクリチュールとして構成され、その転位の諸タイプは、聖刻文字(ヒエログラフ)という宝典に封じ込められた諸要素を、そのまま使用するにすぎない」と解釈する。「象徴の学が夢解釈の基盤として用いられた」というわけである。

こういうことでデリダは、夢もエクリチュールも人間の精神活動ではあるが、それは目覚めた意識や論理的な発話とは異なった、独自の構造をもっていると主張するのである。デリダのいうエクリチュールはパロールには還元されないものだった。同じように夢も、意識には還元されない。そこには意識からこぼれるもの、それをフロイトは無意識というわけだが、その無意識は意識とは異なったダイナミズムに従っている。

この論文には、デリダのもう一つの根本思想である「差延」についての言及もある。「差延」とは、自己自身との差異である。人は体験を反復するようにできているが、通常はその反復を通じて変わらぬものを同一性と名付けている。「自我」というものも、その同一性の一つの範例である。ところが、反復の中には、同一性からはみ出すものがある。そのはみ出した部分を、単に「差異」というのではなく、「差延」というわけである。差異は単に空間的な事象についていわれるものだが、差延には時間の要素が加わる。時間を隔てて反復するうちに、同一性からこぼれたものが現前してくる。そこにおける差異を差延と呼ぶわけである。

夢のなかでは、この差延が支配的である。夢のなかでは、事柄や自我の同一性は大きな意義をもたない。同一性ではなく、差異が正面に出てくる。事象は現れるつどにあらたな衣装をまとっており、互いに似ているところよりは、その独自性のほうが注目をひく。そうした夢の差延の構造が、エクリチュールの差異の構造と重なる、とデリダは考えるわけだが、そのことで何が明らかにされるか、そこまで踏み込んだ議論はこの小論の中にはない。とりあえず、フロイトの無意識に関する議論を、自身のエクリチュールの議論に重ねたところで終わっている。






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