座禅儀:正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第十一「座禅儀」の巻は、座禅の意義と実践上の心得について説いたものである。いまふうに言えば、「座禅の手引き」といったところか。まず、座禅の意義について、「参禅とは座禅なり」と説く。参禅とは。禅の修行のことをいうから、禅の修行は座禅することだ、という意味である。そうしたうえで、座禅の実践上の心得について、ことこまかく説明していく。

最初は座禅の環境についての心得。「坐禪は靜處よろし。坐蓐あつくしくべし。風烟をいらしむる事なかれ、雨露をもらしむることなかれ、容身の地を護持すべし。かつて金剛のうへに坐し、盤石のうへに坐する蹤跡あり、かれらみな草をあつくしきて坐せしなり。坐處あきらかなるべし、晝夜くらからざれ。冬暖夏涼をその術とせり」。要するに快適な環境で、無理なくできるようにするのがよいというわけである。

第二は気持ちの持ち方。「諸縁を放捨し、萬事を休息すべし。善也不思量なり、惡也不思量なり。心意識にあらず、念想觀にあらず。作佛を圖する事なかれ、坐臥を脱落すべし」。俗塵のことは忘れ、余計なことを考えず、ひたすら座禅に集中すべきだという。

第三は、座禅のことを常に心掛け、他のことよりも座禅を優先すべきと説く。「飮食を節量すべし、光陰を護惜すべし。頭燃をはらふがごとく坐禪をこのむべし。黄梅山の五祖、ことなるいとなみなし、唯務坐禪のみなり」。食事の時間も惜しみ、一時も無駄にせず座禅に励むべきだというのである。

第四は、着衣と座布団のこと。座禅の時には袈裟をかけ、座布団を敷く。座布団は、尻の部分だけあたるようにし、脚の部分は床につけるのがよい。

第五は、趺坐の態勢について。「あるいは半跏趺坐し、あるいは結跏趺坐す。結跏趺坐は、みぎのあしをひだりのももの上におく。ひだりの足をみぎのもものうへにおく。あしのさき、おのおのももとひとしくすべし。參差なることをえざれ。半跏趺坐は、ただ左の足を右のもものうへにおくのみなり」。結跏趺坐は、両足を交差させて組むこと、半跏趺坐は片足を別の脚の腿に置くこと。本文が言及しているのは、右の脚から組み始めるもので、これを「降魔坐」という。それに対して左の脚から組み始めるものを「吉祥坐」という。

第六に、手指の扱い方。「衣衫を寛繋して齊整ならしむべし。右手を左足のうへにおく。左手を右手のうへにおく。ふたつのおほゆび、さきあひささふ。兩手かくのごとくして身にちかづけておくなり。ふたつのおほゆびのさしあはせたるさきを、ほそに對しておくべし 」。両手の親指を結んでへそに押し当て、残りの指はそれぞれ反対側の足の先に充てるのがコツである。

第七に、姿勢及び呼吸について。「正身端坐すべし。ひだりへそばだち、みぎへかたぶき、まへにくぐまり、うしろへあふのくことなかれ。かならず耳と肩と對し、鼻と臍と對すべし。舌は、かみの顎にかくべし。息は鼻より通ずべし。くちびる齒あひつくべし。目は開すべし、不張不微なるべし」。姿勢はまっすぐに保つべきであり、呼吸は鼻で行い(鼻呼吸)、目は開いているのがよい。

第八は、雑念を払い座禅に集中すべきことがあらためて強調される。「かくのごとく身心をととのへて、欠氣一息あるべし。兀兀と坐定して思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。これすなはち坐禪の法術なり」。欠氣一息(かんきいっそく)とは、口から大きな息を出すこと。要するに深呼吸である。深呼吸を行ったうえで、雑念を払い座禅に専念すべきだというわけである。

最後に、座禅の意義について、改めて説く。「坐禪は習禪にはあらず、大安樂の法門なり。不染汚の修證なり」。習禪とは、座禅の技術を習得して上手になることをいう。座禅の意義は、座禅に上手になることではなく、大安楽の境地に入ることにある、というのである。

以上、道元が座禅の心得について、ことこまかく指示しているのは、当時の日本ではまだ、座禅の意義とかその実践方法について、定まった理解がなかったからだと思う。






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