キャサリン王妃の嘆き:シェイクスピアの歴史劇「ヘンリー八世」

| コメント(0)
シェイクスピアの歴史劇「ヘンリー八世」の中でもっとも光彩を放っている人物は、王妃キャサリンと枢機卿ウルジーである。この二人の存在感の影から、主人公のヘンリー八世が浮かび出てくるようになっている。王妃キャサリンは夫から疎んじられた不幸な妻という資格で、夫たるヘンリー八世の不義を浮かび上がらせるわけだし、ウルジーは王と悪事を共にするという資格で、王であるヘンリー八世の悪徳ぶりを浮かび上がらせる。王の悪徳ぶりは、そのほかにも随所で見られるが、ウルジーはそれを最も劇的な形で裏書きするのである。

キャサリン王妃が夫ヘンリー八世から疎まれる理由は二つある。一つは率直な人柄から、王に対してもずけずけと歯に衣きせぬ忠言を呈すること、もう一つは、ヘンリー八世に若い愛人(アン・ブリン)ができ、彼女の存在が邪魔になったことだ。ヘンリー八世は、キャサリンと離婚してアン・ブリン(後のエリザベス一世の母親)との結婚を望んだが、離婚を認めないローマ・カトリックによってその意図が阻まれる。ヘンリー八世が、イギリスの国教会をローマから独立させ、独自の宗教としてイギリス国教を確立する努力をしたことは、ヘンリー八世の宗教改革として歴史上知られている。だが、シェイクスピアの筆は、宗教改革の意義には触れず、もっぱらヘンリー八世の女好きの振舞いとして描いている。

キャサリン王妃は、ヘンリー八世の統治が庶民の怒りをかっていることを知っている。その統治は、庶民への苛斂誅求ともいうべき厳しい税の取り立てなのだが、それを実際に動かしているのは枢機卿のウルジーだと思っている。そこで王に対しては、直接王をとがめるのではなく、ウルジーの悪政を批判するというやり方をとる。王はいろいろな面でウルジーを評価・信頼しているので、キャサリンのウルジー批判をまともに受けとめない。そこをウルジーも知っていて、キャサリン王妃の言葉を軽く受け流すのである。

ウルジーによって王が庶民の怒りをかっていることについて、キャサリンは率直な言葉で諫める。

  少なからざる忠実な人々より
  わたくしは陳情されております
  王の臣下たちが大いなる苦境にありますと
  庶民に下命された布告は
  かれらの忠誠心を損なっています
  それも、枢機卿、あなたの
  なせるところだと
  非難の声がおこっていますが
  その非難の声は私たちの王でさえ
  免れることはできません
  I am solicited, not by a few,
  And those of true condition, that your subjects
  Are in great grievance: there have been commissions
  Sent down among 'em, which hath flaw'd the heart
  Of all their loyalties: wherein, although,
  My good lord cardinal, they vent reproaches
  Most bitterly on you, as putter on
  Of these exactions, yet the king our master--
  Whose honour heaven shield from soil!--even he
escapes not

キャサリンは、王を諫めるだけではなく、王に対して不実を働くウルジーをも厳しく批判する。ウルジーが仲間のキャンピーアスとともに、キャサリンの批判は根拠のないものであり、誤解だと逆批判すると、キャサリンは敢然として反撃する。

  一層恥じるがよい、私はあなたがたを
  徳の高い枢機卿と心から思っていました
  ですが、罪深くうつろな心の持ち主のようですね
  恥を知るなら悔い改めなさい、これがあなた方の慰めなのですか
  不幸な女にやる薬なのですか
  途方にくれ、笑いものにされ、あざけられている女への?
  わたくしは自分と同じみじめさをあなた方には望みません
  わたしにはもっと慈悲心がありますから
  ですが気をつけなさい、くれぐれも
  わたくしの悲しみの重みがあなたたちの上にも落ちてこないように
  The more shame for ye: holy men I thought ye,
  Upon my soul, two reverend cardinal virtues;
  But cardinal sins and hollow hearts I fear ye:
  Mend 'em, for shame, my lords. Is this your comfort?
  The cordial that ye bring a wretched lady,
  A woman lost among ye, laugh'd at, scorn'd?
  I will not wish ye half my miseries;
  I have more charity: but say, I warn'd ye;
  Take heed, for heaven's sake, take heed, lest at once
The burthen of my sorrows fall upon ye.

こうしたキャサリンの怒りを、ウルジーはさりげなく受け止める。

  あなたさまが
  私どもの善意をおわかりいただけたら
  ご安心なされるでしょう、一体なぜ
  どんな理由で、あなたさまに悪事が働けましょう
  私どもの地位がそれを許しません
  私どもの役目は悲しみを和らげることで、その種をまくことではないのです
  If your grace
  Could but be brought to know our ends are honest,
  You'ld feel more comfort: why should we, good lady,
  Upon what cause, wrong you? alas, our places,
  The way of our profession is against it:
  We are to cure such sorrows, not to sow 'em.

結局、キャサリンは王の不興をかい、というよりその愛を失い、王妃の地位も失う。とはいえ、完全に否定され、迫害を受けるわけではない。そんなキャサリンが病気になったと聞いて、王がわざわざ見舞いの者をよこすくらいである。その見舞いの言葉に接したキャサリンは、次のように言う。

  おお、その慰めのお言葉は来るのが遅すぎました
  死刑執行の後の恩赦のようなものです
  そのやさしい気遣いも時宜を得れば癒しになったでしょうが
  いまの私にはお祈りのほか慰安はございません
  O my good lord, that comfort comes too late;
  'Tis like a pardon after execution:
  That gentle physic, given in time, had cured me;
But now I am past an comforts here, but prayers.

王の使者に対してキャサリンは王への手紙を託す。そのなかで彼女は、愛娘メアリーを王がいつくしんでくれるよう懇願する。

その手紙の中でわたくしは、わたくしたちの愛の形である
  王の幼い娘をよろしくと王にお願いしておきました
  天よ娘に恵みの露を注がれんことを!
  立派な人間に養育してくださるようにとお願いしました
  娘は幼いながら、気高い性格ですので
  それに価すると思います
  また、王を愛した彼女の母親のためにも
  彼女を愛してくださるようお願いしました
  In which I have commended to his goodness
  The model of our chaste loves, his young daughter;
  The dews of heaven fall thick in blessings on her!
  Beseeching him to give her virtuous breeding--
  She is young, and of a noble modest nature,
  I hope she will deserve well,--and a little
  To love her for her mother's sake, that loved him,
Heaven knows how dearly. 

この娘メアリーは、王位継承順位が二番目であったので、ヘンリー王の死後、エドワード六世の後をつぐかたちで王位についた。そして彼女が死んだあとは、エリザバス一世が王位につくことになる。歴史上の評価としては、メアリーは「血なまぐさいメアリー」と呼ばれて嫌われ、エリザベスは名君としてたたえられることになる。






コメントする

アーカイブ