デンマーク映画「未来を生きる君たちへ」:少年の社会適応

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2010年のデンマーク映画「未来を生きる君たちへ」は、デンマークにおける少年の社会適応や、家族関係のありかたをテーマにした作品。クリスチャンとエリアスという二人の少年の友情を中心にして、少年の家族関係とか、学校をはじめとする社会とのかかわりが、やや情緒的なタッチで描かれる。監督は女性のスザンヌ・ピアだ。

二人の少年とも、社会適応がうまくいっていない。クリスチャンのほうは、父親との関係が破壊されて、そのことで社会全体が信頼できないものになっているし、エリアスのほうは、学校でひどいいじめにあっている。いじめの理由はさまざまであるが、決定的なのはスウェーデン人だということらしい。デンマーク人にとってスウェーデンは伝統的に遅れた国として差別されてきた。そういう歴史的な背景が、デンマークの子供たちにスウェーデン人の子供をいじめさせたのだろうと思われる。

二人の少年は親密な友情を結ぶ。クリスチャンは、イギリスから越してきたことになっているが、自分自身はいじめられない。イギリス人は、、デンマーク人にとっていじめの対象にならないのだろう。そんなクリスチャンが、エリアスをいじめている大柄な子に襲い掛かり、大けがをさせる。当然問題になる。ところが、学校側では、子どもの喧嘩を平等に裁こうとせず、クリスチャンとエリアスに責任を押し付けて、他の学校への転向を勧める始末。要するに、問題が起こったときには、弱いものにしわ寄せして、丸く収めようという体質なのだ。

エリアスの父親は、医師であり、アフリカで医療援助活動に従事している。妻との関係は冷え切っており、それが息子のエリアスにも伝わって、家族関係全体がぎくしゃくしている。そんななかで、エリアスの父親が、ちょっとしたトラブルから、近所の粗暴な男から暴力を受ける事態が起きる。父親はその暴力に反発しない。二度にわたって殴られ放題である。そんな父親は、自分の信念にもとづいて非暴力主義を貫いているのだが、子どもにはそれがわからない。理不尽な暴力を振るわれて黙っているのは、臆病だからだ、としか思えない。

そこで二人の子供は、父親にかわって自分たちが復讐してやろうと考える。それも息子のエリアスではなく、クリスチャンのほうが音頭をとるのだ。かれらは、たまたま手に入れた化薬を使って破壊力の大きな爆弾を作り、それで暴力男の車を爆破しようとする。いざ爆発というときに、たまたま子ども連れの母親が通りがかる。そこをエリアスが飛び出して行って、母子は爆発から逃れることができたが、エリアスは重傷を負ってしまう。

こんな具合に、さまざまな試練に直面しながら、二人の少年の友情が深まっていくさまを描いているのである。かれらが、どのようにして、自分の家族や社会との間で、まともな関係を作るようになったか、そこまでは追いかけていない。

この映画を見ていて強く感じるのは、親の価値感が非常に不安定なことで、その不安定さが子供をそこなっているのではないか、ということだ。たとえば、非暴力について、父親に大した確信があるわけではない。かれは、自分自身では非暴力の立場を貫くことができたが、他人が非人間的な暴力をふるっているのを見ると、許すことができないのである。こうした中途半端な姿勢が、子どもをイライラさせる。子どもというのはストレートを好むもので、いいことと悪いこととの間に堅固な差異を設けたいと思っている。だからその差異を曖昧化しようとする大人は欺瞞的に見えるのだ。この映画の場合、エリアスの父親がその欺瞞的な人間として振る舞っている。






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