人と人との間:落日贅言

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この落日贅言シリーズも七回まで進み、死ぬる苦しみとか生きる喜びについて語ってきた。落日に直面している老人のうわごとのようなものだったと思っている。次はもっと世俗的なテーマを取り上げようと思いながら準備をしていたところ、イスラエルとパレスチナの殺し合いが始まった。これはウクライナ戦争に劣らぬくらい、世界平和にとってインパクトのある事件なので、当然軽視するわけにはいかない。自分なりに考えてみる必要がある。またこのシリーズで取りあげてみたいとも思う。だが、事態は流動的で、この先どう展開するかわからない。イスラエルのユダヤ人指導者たちは、タマをけられた犬のようにいきり立っており、ガザのパレスチナ人を皆殺しにするつもりのようだ。それに対して、パレスチナのほうは、おそらくまたやられっぱなしになるのであろう。だが、今回がこれまでと違うのは、国際社会の多数派が、イスラエルの過剰な懲罰に対して批判的なことだ。アメリカに対しても、イスラエルによる残忍な行為に肩入れしているという批判が向けられている。こんなことはこれまでなかったことで、そういう国際社会の変化が、イスラエルとパレスチナの歴史的な対立にどんな影響を及ぼすのか、まだまだ流動的である。それゆえ、この問題については、もうすすこし行方を見てから取り上げるのがよろしかろうと思い、今回は見送ることにした。

今回取り上げるテーマは人と人との間だ。死を取り上げた際には、死は公共の事柄だと書いた。また、生きる喜びを取り上げた際には、生きる喜びとは他者と共に味わうものだという趣旨のことを書いた。人間という生き物は、生死にわたって他者を前提としている。他者なしでは人間性は存立し得ない。人間はすぐれて社会的な動物なのである。その人間の社会性を小生は「人と人との間」という言葉であらわしたいと思う。

この言葉自体は、日本の精神病理学者木村敏のものである。木村は、人間が社会的な生き物だというごく当たり前のことから出発して、その社会性を人と人との間の関係と定義したうえで、その関係がうまく機能してこそ、人間は人間らしく生きられると考えた。この「人間らしく」という言葉には、いろいろ複雑な問題が含まれているのだが、それをいじるときりがないので、ここではとりあえず常識的な意味で使うことにする。常識的とは、社会のメンバーの大半が納得しているあり方という意味である。

木村は精神病理学者であるから、精神病の患者がかれの研究対象である。精神病は病気であるとみなされ、したがって医学的な治療が目的となる。たんなる研究対象にはとどまらないのだ。そこでどんな治療をするかが問題になるが、木村が活躍していた時代には、精神病発症のメカニズムがまだよくわかっておらず、神経系統の異常に原因があるという説と、人間関係の異常に原因があるという説とが拮抗していた。木村自身は、人間関係の異常に精神病発症の原因を求める立場に立っていた。木村は、その人間関係をかれなりの言葉である「人と人との間」であらわしたのである。

木村のように、精神病の発症原因を人間関係の破綻に求める見方はけっこう支持者が多いようである。精神病は基本的には脳の異常が原因であり、したがって薬物投与によってしか治せないという見方が主流となった今日でも一定の支持者を擁している。精神病のメカニズムがあまりにも複雑なので、器質的な異常には還元できないのであろう。

木村のような立場をここでは仮に「精神病人間関係説」と呼ぶことにする。この系統に属する代表的な学者は、イギリスの精神病理学者レイン(1927-1989)である。レインは、彼が生きていた時代に分裂病と呼ばれた精神病(今日では「統合失調症」と呼ばれる)に焦点を当てた研究を行い、分裂病は家族関係の病理だと結論付けた。家族関係は、人間関係の原モデルとなるものであるから、そこにおける破綻は、人間関係の破綻のモデルとなる。そのモデルを詳しく研究したレインは、家族との正常な(常識的な)関係を築けないことが、分裂病的な性格形成につながると考えた。つまり分裂病に代表される精神病は、人間関係の正常な構築に失敗した結果だというのである。家族との正常な関係の構築に失敗した個体は、社会一般との間での正常な関係も築けない。そのため、精神病患者として扱われ、社会から排除されることになる。

レインは、ベイトソン(1904-1980)から大きな影響を受けた。ベイトソンは「ダブルバインド」論で知られている。ダブルバインドというのは、正反対の意味を持つメッセージを同時に受けて精神的に混乱する事態をいう。たとえば、母親から愛していると言われながら、その母親に近づこうとすると拒絶のサインを送られるといった事態である。そういう矛盾したメッセージを受けると、その子供はなにを信じたらよいかわからなくなり、精神的に混乱する。その混乱が精神の分裂現象の原因となる、と考えたのである。

ところで小生が今回「人と人との間」をこの落日贅言のテーマとして取り上げる気になったのは、自分自身精神を病んだ人とかかわった経験があるからである。そうした人たちは、あきらかに他人とのコミュニケーションに大きな問題を抱えており、したがって「人と人との間」をうまく処理することができないでいる。小生が経験した範囲では、激しい情動など精神病に特有の症状の多くは薬物によって対処可能であるが、それは激しい情動をしずめるという対処療法的な効果をもたらすにとどまり、病気そのものの根本的な治療にはならないという印象を強くもった。そんなわけで、素人ながらも、精神病は薬物で対応可能な器質的な要素とともに、人間関係にもとづくような病巣も持っていると考えている。

小生が接した精神病者というのは、明確に精神病の診断を受けたものとしては二人いて、どちらも分裂病(統合失調症)の診断を下された。一人は被害妄想の強い人で、その妄想を他人に向かって表現するので、かれに接したほとんどの人が脅威を覚えた。そのため、人事管理者として放置しておけなくなった。もう一人は女性であったが、こちらはやたらと他人に攻撃的なのである。なぜ攻撃的になるかというと、本人の言い分によれば、相手が間違っていることをしているから、それをただすのだというのであった。だから、これもおそらく妄想がはたらいていたのだと思う。この二人とも精神病院に入院治療させたところ、一人は(女性のほうは)比較的短い時間で社会復帰するまでになったが、もう一人のほうは長い間入院することとなった。同じく分裂病といっても、症状の進み具合や、そのほかの事情によって、異なる予後があるということらしい。そのほか、浪費癖の激しい人とか、放浪癖のある人とか、世人とは変わった行動をする人にも接したが、そちらは精神病というまでにはならないものの、その傾向を多少はうかがわせるものだった。

精神病のうち躁うつ病とかうつ病とか呼ばれるものは、ごく普通の人間もかかることがあるようなので、こちらは比較的身近に接した人が多いのではないか。この病気は、基本的には薬物でコントロール可能とされている。しかし、強烈な自殺願望を伴うことがあるので、関係者は気を抜けない。自殺する人の大多数は、鬱状態にあったと考えられるのである。このうつ病については、エーレンライヒ(1941-2022)がユニークな説を提示している。うつ病はカルヴィニズムと強い関連があるというのだ。その例示として彼女は、イギリスの詩人ジョン・ダンをあげる。ジョン・ダンは深刻なうつに苦しんでいたが、それはかれの信仰に関連していると彼女はいうのだ。その証拠に、プロテスタントの興隆以前には、人類はうつ病をほとんど知らなかったというのだ。たしかに、プロテスタントの信仰とほとんど無縁であった日本では、うつ病が猛威を振るうという事態はなかったようである。

分裂病(統合失調症)といい、うつ病といい、精神病は人間の生き方にかかわる。身体の病気といえども、人間の生き方にかかわることに違いはないが、しかし心の病は人格そのものの変容にかかわるものだし、その意味では、生きる意味を決定的に左右する。といっても、心を病んだ人は人間としてできそこないであり、生きる資格がないと言っているわけではない。どんな人間にも、かれに相応しい生き方がある。そういう人たちは、人と人との間で生きることが得意とはいえないかもしれない。しかし人間と人間のはざまでかれなりに生きていくことはできるように思える。





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