近藤和彦「イギリス史10講」 イギリスはなぜ世界の王者となったか

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近藤和彦の「イギリス史10講」(岩波新書)は、ローマ人からガリアと呼ばれた時代からサッチャー、ブレアに到るまでのイギリスの通史である。近藤は歴史学者だから、なるべく実証的に、つまり事実を尊重して余計な価値判断を持ちこまないように心掛けているようだが、その叙述からはおのずから、一定の価値判断、つまりバイアスのようなものは感じられる。そのバイアスとは、イギリスという国よりも、その国を動かしている人々の行動様式に着目して、そこに一定の価値を認める立場のことだ。イギリスという国を動かしてきたのは、アングロサクソンと呼ばれる人種の人々だが、そのアングロサクソンは、イギリスをいう国の範囲を大幅にはみ出し、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドといった国々を建国したほか、インドをはじめ世界中のさまざまな国を植民地化してきた。アングロサクソンはだから、世界の王者民族といってよい。かつて日本では、平氏にあらされば人にあらずといったものがあったが、アングロサクソンにあらざれば人にあらずといえるほど、イギリス人の同義語であるアングロサクソン人は世界を勝手気ままに動かしてきたのである。そんなイギリスに近藤は最大限の敬意を払い、日本も又かくありたしと願っているように思える。

ここでは、この書物についての包括的な批評を試みない。いくつか気になったことを指摘して、近藤がなぜイギリス贔屓になったかについて考えてみたい。

イギリスの国力の源泉は、まず国民自身である。イギリス人の国民性がイギリスの国力を高めた。ではそのイギリス人の国民性とは何か。それを近藤は、エドマンド・バークの標語「過去と現在のパートナーシップ」を引用しながら特徴づけている。バークの標語は、常に過去の経験に学びながら漸進的に進んでいくのが望ましいという主張を押し出したもので、きわめて経験主義的でプラグマティックである。そうした姿勢がイギリス人に寛容性とか包容性をもたらした。寛容性とか包容性といったものは、国民を統合していく上で都合がよい。フランス人が好きな理念重視の姿勢は、国民をある一定の原理に従って無理に統合しようとする。そこから不寛容とか排他性といったものが強まる。それでは国民は一体感は持てない。一体感を持てない国民は、強い国家を作ることはできない。イギリスは国民が一体感を持ち、しかも寛容で包容的であったがゆえに、強い国家を作ることができた。これは国民の性質が、国家の強さの源泉となった、ということを示している。近藤はまずそう考えるのである。

イギリスの国力を高めた第二の要因は経済力の強さである。これには18世紀半ばに始まった産業革命が決定的な役割を果たした。他の国に先駆けて産業革命に成功したことは、イギリスに初発の利益をもたらした。産業革命は、世界市場におけるイギリスの経済的な優位を決定づけ、経済における世界の覇権を可能にした。その産業革命がほかのヨーロッパ諸国にも広がると、ヨーロッパ全体が地球のほかの地域に対して優位になり、ヨーロッパによる世界支配の体制につながっていった。イギリスはそのヨーロッパにおいてもっとも強い国であり、また世界の中心でもありえた。

イギリスの国力を高めた第三の要因は、グローバリゼーションを主導したということである。イギリスによるグローバリゼーションは、すでに16世紀から海外植民地の獲得という形ではじまっていたが(アメリカほかのアングロサクソン国家群の先蹤)、産業革命を経て経済活動が活発になると、海外に市場を求めて世界中の国々との貿易をイギリスに都合のよい形で行おうとした。それが、イギリス主導のグローバリゼーションを加速させた。そのグローバリゼーションの動きには、世界はイギリスのためにあるといったイギリス人の誇りとうぬぼれが含まれている。

第四の要素は、イギリス人の他民族支配の狡猾さである。インド支配で、その狡猾さはいかんなく発揮された。イギリスの植民地支配は、場合によっては残酷さを伴い、大虐殺事件をおこしたりもするが、とにかく自国の利益のためにはなんでもありといった冷静でかつ狡猾な他民族支配にたけていた。そのいい例が、トルコを滅ぼして、その支配地域をかすめ取った動きである。イギリスは、お人好しのアラブ人をだましてトルコに反逆させ、トルコが敗れたあとは、トルコが支配していたアラブ地域を、(フランスと協力しながらではあったが)自分の支配下に置いた。それに深くかかわったロレンスのことに、近藤は言及しているが、あまり批判的には見ていない。だまされたアラブ人より、だましたイギリス人のほうが賢いと思っているようである。

イギリス人の狡猾さは、ユダヤ人をうまく使うということにも現れている。大陸の諸国とは違い、イギリスはもともとユダヤ人には寛容だった。ユダヤ人の金融ネットワークの利用価値を評価して、受け入れていたのだ。第一次大戦の際には、ロスチャイルドの金融力に戦費を担わせた。その見返りというわけだろう、パレスチナにおけるユダヤ人国家の建設をバルフォア宣言という形で与えた。イギリスのこの狡猾なやり方によって、中東は大きな不安定要因を抱えることになった。その責任をイギリスは頬かむりしたままである。

近藤はこの著作の最後を、サッチャーとブレアへの言及でくくっている。近藤はいわゆるサッチャリズムに批判的である。サッチャーは、イギリスの伝統である寛容性とか包容性といったものとは無縁だった。彼女は硬直した理念にこだわった。その硬直した理念を振りかざし、不寛容で攻撃的な政治をおこなった。彼女の攻撃性は、若いころからの彼女の性格をなしている。それを見抜いて、彼女の求職を拒否したICIは、その理由として彼女の性格の異常さをあげている。それは、「頭でっかちで、頑迷で、危険なほど自己意識過剰」というものだった。そんな彼女に対して、母校のオックスフォードは、首相経験者へ授与することが慣例になっている名誉学位を与えなかった。母校でさえそうなのだから、彼女がほとんどのイギリス人から嫌われるのは仕方のないことであろう。彼女の伝記映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」は、彼女が死んだとき、大勢の人々が「魔女は死んだ」といって喜んださまを映し出していたものだ。






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