正法眼蔵随聞記第一の評釈

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正法眼蔵随聞記は六巻からなる。全体の冒頭部分(第一の一)は、只管打坐について説く。道元は只管打坐こそが禅の極意と考え、ことあるたびにそれを強調していたので、懐奘がこれについての言及から正法眼蔵随聞記の記述を始めたのは自然なことである。道元は、「金像の仏と亦仏舎利とをあがめ用」いている僧に対して、「仏像舎利は如来の遺像遺骨なれば恭敬すべしと云へども、また偏に是を仰ひて得悟すべしと思はゞ還て邪見なり」と言ったうえで、「其の教に順ずる実の行と云は即今の叢林の宗とする只管打坐なり」と言って、只管打坐をもっぱらにするよう勧めるのである。

二は、坐禅工夫をもっぱらにすべしという道元の言葉について解説する。坐禅工夫は只管打坐と同じ意味の言葉である。これについても、戒律を重んじる僧を念頭において、「戒行持斎を守護すべければとて、強て宗として是を修行に立て、是によりて得道すべしと思ふも、亦これ非なり」と言ったうえで、「実の得道のためには唯坐禅工夫、仏祖の相伝なり」と説く。

三は、弟子の教導について。肉食を例に挙げながら、それを許すか許さぬかという選択の問題として、弟子をいかに教導すべきかについて説く。

四もまた、只管打坐について説く。「人其家に生れ其道に入らば、先づ其家業を修すべしと、知べきなり」と言い、人はそれぞれ己の本分を尽くすべしとしたうえで、僧の本分は只管打坐だと説く。

五は、広学博覧は一人の身には限界がありかなわない、それよりも一つのことを専修すべきであると説く。

六は、禅の有名な公案、南泉の斬猫につけて道元の考えを述べたもの。この公案は、南泉が弟子たちに向かって問いをだし、それに答えらればね猫を斬るといい、じっさいに猫を斬ってしまったという内容だが、道元は、自分ならそうはしない、答えられようと、答えられまいと、自分ならどちらでも猫を斬るというのである。猫を斬るというのは、無論比喩的な言い方である。だが、それが何を比喩しているのか、かならずしも明瞭ではない。この節は禅者による動物虐待を裏付けているものとして、西洋では評判が悪い。

七は、教導すべきものの心得を説く。弟子の出来が悪くとも、無暗に呵責したりそしったりしてはならない。「弟子不当ならば慈悲心老婆心にて教訓誘引すベし。其時設ひ打べきをば打ち、呵嘖すベきをば呵嘖すとも、毀眥謗言の心を発すべからず」というのである。

八は、「其人にあらずして人を呵すること莫れ」と説く。これは人をそしるのは、それに相応しい人がなすべきで、ガラにもない人がやるべきではないということである。

九は、八の延長。人は自分に与えられた使命に励むべきであって、その他のことを思うべきではない。また、使命の達成そのものを目指すべきであって、それに付随して利得を考えてはならぬと説く。

十は、他人の僻事を気にして、あれこれ言うべきではないと説く。そんなことをすれば、怒りをかうだけだ。「耳に聴入れぬやうにして忘るれば、人も忘れて嗔らざるなり」と知るべきである。

十一は、多くのことに手を出さず、もっぱら一つのことに専念すべきだと説く。「一事を専らにせんすら、鈍根劣器の者はかなふべからず。況や多事を兼て心操をとゝのへざらんは不可なり」というのである。

十二は、修行のためには命も惜しまずといった覚悟が必要だと説く。「命を軽じ衆生を憐む心深くして身を仏制に任せんと思ふ心を発すベし。若し先きより此の心一念も有らば失なはじと保つべし。是れほどの心、一度おこさずして仏法を悟ることは有べからざるなり」というのである。

十三は、修行においては、師匠の言葉に忠実に従うことが大事だと説く。「知識若し仏と云は蝦蟆蚯蚓ぞと云はゞ、蝦蟆蚯蚓を是ぞ仏と信じて日比の知解を捨つべきなり」といった極端な言い方までしている。

十四は、一事をもっぱらにするとは、仏教の修行者にとっては、只管打坐に徹することだと説く。そのために、病になるとも気にしない。「此の身をいたはり用ひてなんの用ぞ。病ひして死せば本意なり」というのである。

十五は、修行のためには、命を捨て身を切ることも辞すべきではないと説く。道元は、修行のために自分の肘を斬った慧能の故事を念頭においているのであろう。

十六は、修行のためには、飢や外見をも気にする必要はないと説く。「外典に云く、朝に道を聞て夕べに死すとも可なりと。設ひ飢へ死に寒へ死すとも、一日一時なりとも仏教に随ふべし」と言うのである。

十七は、猥談に興じるようなことは慎むべきだと説く。ひとはとかく猥談を好むものだが、それは修行のさまたげになる、というのである。

十八は、人は善事をなすときは他人に知ってもらいたいと思い、悪事をなすときは知られたくないと思うものだが、それではいけない。人知れず善事をなし、悪事は包み隠さずのがよいというのである。

十九は、他人から何か頼まれたときには、それに応じてやるがよい、と説く。この節は、第一の巻の中でもっとも有名で、かつ、議論を巻き起こした。頼まれたことが、人倫に反していても、なおそれに答えるべきかという疑問が、その主な論点である。道元はそれに対して、巧妙な逃げ道を用意する。頼まれて口利きするときは、このような頼みがあるから、あなたにおいては正義にかなったやりかたで応えてほしいと言えばよい、というのである。正義にかなったやり方がいかなるものかについては、相手の判断にゆだねるのである。

二十は、十八の延長。悪事をかくしても諸天善神にはお見通しだし、まして善事をなせば、それ相応に評価してもらえる、と説くのである。

二一は、修行のためには、「世をすて家をすて身をすて心を捨つる」覚悟が必要だと説く。こう言うことで道元は、禅は出家を前提としていると主張するわけである。






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