ラスコーリニコフとポルフィーリー・ペトローヴィチの対決:ドストエフスキー「罪と罰」を読む

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「罪と罰」は、ラスコーリニコフの犯した殺人をテーマにしたもので、殺人の実行とかその動機については最初からあまさず描写されている。したがって通俗的な探偵小説のような謎解きサスペンスの要素はない。ところが、そこに予審判事のポルフィーリー・ペトローヴィチが一枚からむことによって、サスペンスの雰囲気が生まれてくる。ドストエフスキーは、巧妙なやり方で読者をポルフィーリー・ペトローヴィチに感情移入させ、そのことでポルフィーリー・ペトローヴィチの視点からこの殺人事件のなぞ解きをしているような気分にさせるのである。これはなかなか高度なテクニックである。

ラスコーリニコフは三回にわたってポルフィーリー・ペトローヴィチと直接会話を行っている。その会話を通じて、ラスコーリニコフはポルフィーリー・ペトローヴィチが自分を疑っていることを知り、かつかなり正確な事実認識に達していながら、物証が不十分だという理由で起訴を躊躇していることを知る。そのうえで、ポルフィーリー・ペトローヴィチは自分に対して自首を勧めたりする。そんな遠回しなことをせずに、一挙に逮捕したらよさそうにと思いながら、ラスコーリニコフはポルフィーリー・ペトローヴィチの真意を測りかねて困惑するのである。

そもそもラスコーリニコフをポルフィーリー・ペトローヴィチに引き合わせたのは親友のラズミーヒンである。ラスコーリニコフは、老婆が質草として預かっていた品々を警察が押収しただろうと考え、そうなら、自分も呼ばれるだろうと推測する。彼自身老婆に質草をあずけていたからだ。そこで呼ばれる前にこちらから申し出たほうがよいのではないかとラズミーヒンに話したところ、ラズミーヒンは縁者であるポルフィーリーを紹介したのである。だからラスコーリニコフとしては、かれと会うのはマヌーバーのようなものだった。ところが、ポルフィーリー・ペトローヴィチはなかなかの曲者で、すでにラスコーリニコフが犯人だとにらんだうえで、その登場を待っていたのである。

ポルフィーリー・ペトローヴィチがラスコーリニコフを犯人だと推測したのは、たまたまラスコーリニコフの書いた文章を読んで、こんなことを考える男ならきっと殺人を平気でやるに違いないと思ったからだ。その文章を読んだすぐあとに、老婆殺しが起こったので、これを書いた男であるラスコーリニコフならやりかねないと考えたのである。だがそれは、ただの推測であって、裏付けとなる証拠があるわけではない。それに警察ではすでの他の人物を犯人として逮捕している。そんなわけだから、ラスコーリニコフを犯人と決めつけるためには、強固な裏付けとなる証拠が必要だった。それがまだ揃わない段階では、強気に出るわけにはいかない。しかし自分の推測を当の本人に話してきかせ、その動揺を見て楽しむくらいはいいだろう。まあそんな気持ちで、ポルフィーリー・ペトローヴィチはラスコーリニコフに対面したのである。

思いがけない対面となって、ラスコーリニコフは動揺する。だが決定的な証拠があるわけではなく、そんなに簡単につかまることはないだろう、とタカをくくる。実際ラスコーリニコフは、捜査当局によって逮捕されることはなく、あくまでも自分から自首したのである。それもまったく別の理由に基づく心境の変化によるものだった。だからこの件に関しては、ポルフィーリー・ペトローヴィチを含めて、ロシアの捜査当局は大した能力は発揮していないのである。

二度目に会ったのは、ラスコーリニコフの心境の大きな変化があって、自首してもよいと思うようになってからだ。当初は警察に自首しようとも考えたが、いきがかり上ポルフィーリー・ペトローヴィチと対面することになった。そのころには、ポルフィーリー・ペトローヴィチの捜査も進んでいて、すくなくとも状況証拠は固まってきた。あとは本人の自白があれば、体裁は整う。そこでかれはラスコーリニコフに自首をすすめるのである。ラスコーリニコフも半分そんな気持ちに傾くのであったが、思いがけないことがおこる。ミコライという男が、老婆を殺したのは自分だといって自首してきたのである。これには、ポルフィーリー・ペトローヴィチもラスコーリニコフも面くらう。こういう不可思議なことがロシアでは起こりうる、とドストエフスキーは読者に注意をうながしているように文面からは伝わってくる。

三度目にあったときには、ポルフィーリー・ペトローヴィチは再びラスコーリニコフが犯人だと確信していた。ミコライの自首は特異な宗教的妄想がさせたもので、事件とはかかわりがない。ミコライは分離派の信者であるが、分離派というのは、自分自身に苦悩を課すことを喜びとする。殺人事件の犯人だと自首すれば、自分は殺人犯として社会から糾弾され、責められるであろう。その社会による責め苦が自分にとっては宗教上の試練になる。そう考えて自首したものだ、とポルフィーリー・ペトローヴィチは確信したのである。

とはいえ、ラスコーリニコフを検挙できるだけの物証があるわけでもない。「ウサギを百匹あつめても、決して馬にはなりません。嫌疑を百あつめたところで、証拠にはならんものです」(工藤精一郎訳)というわけである。

そういうわけでポルフィーリー・ペトローヴィチはラスコーリニコフに改めて自首をすすめるのである。かれのできることはそこまでだというのだろう。日本の捜査当局なら、状況証拠だけで検挙し、あとは自白で補強しようとするところだろう。ロシアでは、ドストエフスキーの時代においても、証拠中心主義が貫かれていたということか。

ポルフィーリー・ペトローヴィチは、ラスコーリニコフの判断にほとんど影響を与えることはなかったわけで(決定的な影響はソーニャによるものである)、それを踏まえるとかれを登場させることにはあまり意味がないとも言えなくはないが、しかし、かれが介在することで、ラスコーリニコフの心境が陰影深く描写されることともなり、小説の運びにサスペンスの要素を持ちこむこともできている。その意味では、それなりの役割を果たしていると言えるのではないか。なお、ポルフィーリー・ペトローヴィチは父称で呼ばれるだけで、姓が省かれている。姓なしで呼ばれてるいるのは、この小説の中ではかれだけだ。ドストエフスキーの他の小説にも、姓ぬきで呼ばれている人物はいないのではないか。






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