能動と反動:ドゥルーズ「ニーチェと哲学」

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ドゥルーズはニーチェの哲学を、「力への意思」をはじめとしたいくつかのキー概念を分析しながら解明していく。それらのキー概念の中には、「能動と反動」、「肯定と否定」、「高貴と低劣」といった一連の概念セットがあるが、それらは外見から思われるほど単純な二項対立ではない。通常の二項対立を構成する二つの項目は、互いに対立しあうものの、価値的には同等のものであり、より高度な概念のもとでは、相互に置き換え可能なものである。ところがニーチェの一連の対立概念セットは、一方が他方より価値的に高度なものであって、それが反対概念との対立を超越して、それ自身が無条件の存在を主張するといったものだ。その無条件の存在をもとに、存在を無条件に肯定しようというのがニーチェの思想の根本的な特徴である。その存在の無条件の肯定という境位から、永遠回帰とか超人といった思想が生まれてくる。

「能動と反動」は、「肯定と否定」と並んで、ニーチェ流二項対立のもっとも核心的なものである。両者とも「力への意思」の発現というふうに位置づけられるが、多少ニュアンスの相違がある。肯定と否定のほうは、判断の質にかかわり、その判断が、ニーチェの憎悪する奴隷道徳を基礎づける。一方、「能動と反動」のほうは、判断の質というよりは、人間の生き方にかかわる。人間の生き方には、ニーチェによれば、前を向いた能動的な生き方と、後ろを向いた反動的な生き方がある。ところが、「肯定と否定」において、否定が優位を占めることで奴隷の道徳が生じたように、「能動と反動」においても、反動が優位をしめることで、人間の堕落した生き方が合理化される。

「能動と反動」は人間の生き方にかかわるといったが、無論、その生き方は力への意思を表現しているので、「肯定と否定」、「積極と受動」、「高貴と卑劣」といった概念とも深く関係している。それらのいずれも、何らかの形で力への意思の現れなのだ。能動は肯定、積極、高貴といった概念と深いかかわりがある。能動的な生き方は存在を無条件に肯定するのであるし、なにごとをも積極的に捉え、高貴さを感じさせる。というのも、能動は力そのものであって、自分が力であることを意識していない力、無意識の力だからである。

「能動と反動」は、一対の対立概念セットであるが、両者は対称的な関係にはない。対称的な関係は、ある価値が相互に逆向きであり、したがって反転可能なものであることを意味するが、「能動と反動」の関係にあっては、能動が本来的なものであって、反動はそこから派生したもの、能動の否定態として捉えるべきである。能動はそもそも反動を前提としていないのだ。それに対して反動のほうは、能動を前提している。能動的なものがまずあって、それの否定として反動的なものが生まれるのである。

そのような関係は、ニーチェ特有の思考を表現したもので、常識的な捉え方とは異なったところがある。常識的な捉え方では、能動と反動は、作用と反作用のように、相互依存の関係にある。一方を欠いては他方は成り立たない。ところがニーチェは、そうした捉え方を退ける。能動は反動を前提せずして、それ独自に存在を主張できる、と考えるのである。「肯定と否定」、「高貴と卑劣」の関係においても同様である。肯定は否定を前提しない、一方否定は肯定を前提する、といったように、二項対立をある種の非対称的な関係として捉える傾向がニーチェには指摘できる。

そんなわけで、「能動と反動」という対立関係においては、能動はそれ自体として自律的な力として定義される。その能動的な力をニーチェは次のように定義する。「一、支配し、屈服させる可塑的な力。二、自分のなしうることの果てまで進んでいく力。三、自身の差異を肯定し、それを享楽と肯定の対象とする力。以上三つの性格を同時に考慮することによって、力ははじめて具体的かつ完全に規定されるのである」(足立和弘訳)。

一方、反動は文字通り能動への反動である。つまり能動の否定である。だから能動的なものを前提しないでは、反動は語れない。その場合、反動的な力はどうやって能動的な力を否定するのか。「反動的な力が、能動な力をその能動的な力のなしうるものから引き離すとき、この能動的な力は今度は反動的になる。能動的な力が反動的になるのだ」。ちょっとわかりにくい説明だが、要するに、能動的な力を前提として、その力が方向をかえて後ろ向きに行使されるときに、本来の能道的な力が反動的な力に転化すると言いたいようである。

こうした現象が生じるのは、人間そのものの中に、人間性という形で、反動化の傾向がそなわっているからではないだろうか、とニーチェは推測する。人間社会の間で、高貴な人間とか偉大な人間が軽蔑され、卑劣で矮小な人間がはびこるのは、そうした傾向のためではないかとニーチェは考えるのだ。ニーチェの前半期の著作は、高貴なものと卑劣なもの、偉大なものと矮小なものとの対立に関する考察に溢れているが、それは、人間社会に卑劣で矮小なもの、つまり奴隷的な道徳を思わせるようなものへの嗜好が根強く存在していることのあらわれではないか、そうニーチェは考えるのである。

能動と反動との間の非対称性は、肯定と否定との関係にも類推される。ニーチェにあっては、肯定は否定を前提としない。一方、否定は肯定を前提する。肯定は、たんに「しかり」というのみである。一方否定は、その「しかり」を否定することに存在根拠をもつ。否定すべき対象がなければ、否定は成立しないのだ。

これを敷衍すると、なぜ奴隷の道徳が勝利するのか、その秘密がわかる。高貴な人間は自分自身について「しかり」あるいは「よし」といって肯定する。一方奴隷は、主人は「悪い」という。悪いの逆はよいである。だから、主人が悪ければ、奴隷である自分はよい人間ということになる。これはかなり形式的な議論だが、じっさいには大きなインパクトを持つ。奴隷が勝利して、かれらの利害が道徳という形をとり、それが人間社会全体を律するようになったことの背景には、こうした事態が働いていたのだ、というふうにニーチェは考えるのである。






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