ドストエフスキー「永遠の夫」を読む

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ドストエフスキーの小説「永遠の夫」は、「罪と罰」と「白痴」の間に書かれた。「罪と罰」はドストエフスキーにとって転換点を画すもので、それまでの主観的な心理小説の域から、客観的でスケールの大きな物語展開を試みたものだった。そのスケールの大きさは、「白痴」でさらに大きな規模で展開されるのだが、その二つの作品に挟まれたかたちのこの「永遠の夫」は、比較的短いということもあって、以前の主観的な心理小説の段階に逆戻りしている感がある。登場人物の少なさがそれを裏付けている。この小説には二人の男が登場するのだが、その二人の男は、まるで一人の男の裏表のように扱われており、実質的に一人の男といってよいくらいなのである。

テーマは寝取られ男である。または、他人の妻を寝取った間夫といいかえてもよい。この小説は妻を寝取られた男と、その妻を寝取った男(間夫)との奇妙な関係を描いているのである。その二人の男が一対一の形で対面するのなら非常にわかりやすい構図になるところ、この小説に出てくる不倫の妻はもはや死んでいて、生前にはこの二人以外の男ともかかわっていた。つまりロシア女としてはめずらしいほど尻軽な女なのである。だから、寝取られた男は、複数の男に妻を寝取られたわけで、この小説の主人公だけを恨むだけではすまない。じっさいかれは、妻を寝取った複数の男たちに接触をはかり、憂さ晴らしに励んでいるのである。その憂さ晴らしのなかでも、この小説の主人公であるヴェリチャーリニコフに対するものが一番手が込んでいるというわけである。

この小説は一応、寝取った側のヴェリチャーニノフの視線から語られていく。舞台はペテルブルグ。そのペテルブルグの路上で、ヴェリチャーニノフは誰かに尾行ざれていると感じる。それが何度かあったのちに、尾行相手が突然姿をあらわにする。それが寝取られ亭主のトルソーツキーなのだった。二人は九年ぶりの再会だった。九年以前にヴェリチャーニノフは田舎の農園でトルソーツキー夫妻と仲良くなり、しかもトルソーツキーの妻を寝取ったのだった。そのことを思い出したヴェリチャーニノフは、いまさらトルソーツキーが何のつもりであらわれたのかと不審に思う。トルソーツキーによれば、妻が最近死んだばかりなので、生前妻と親しくしていた人たちと、妻の思い出を共有したいというのだが、それにしても釈然としない。もしかしたら、九年ぶりに妻を寝取った相手に仕返しをしにきたのではないか。それにしては、自分を責める様子はなく、むしろ寝取られたことを知らないふりをしている。妻を寝とったものは、ほかにいる、それはパウーノフとかいう若い男で、自分はその男に会うつもりでペテルブルグに出てきたのだという。ところがその男は死んでしまったので、昔の思い出を共有できるのはあなたしかいない、というようなことをトルソーツキーは言うのである。

そのトルソーツキーはリーザという娘を連れてきていた。その娘は、ヴェリチャーニノフの子である可能性が高い。実際ヴェリチャーニノフはその娘を自分の実の子だと確信するのである。トルソーツキーは妻が死んだことを幸いに、その娘を実の父親ヴェリチャーニノフに押し付けに来たのではないか。そんなふうに当のヴェリチャーニノフは思い、読者もまたそのように思わせられる。それだけなら単純な話に終わるところ、トルソーツキーのヴェリチャーニノフへの思いはそんなに単純なものではない。かれは執拗にヴェリチャーニノフに付きまとい、キスまでねだる始末なのだ。あたかも同性愛者の如くに。

リーザは不幸にして死んでしまう。リーザの死をトルソーツキーが悲しむ様子はない。悲しんだのはヴェリチャーニノフのほうだが、それはリーザを実の娘と思っているからである。だが不思議なことに、ヴェリチャーリノフはリーザのことを速やかに忘れてしまうのだ。

小説は、ヴェリチャーニノフとトルソーツキーの奇妙な間柄を執拗に追いかける。一応ヴェリチャーニノフの視点から語っているので、その間柄が奇妙に映るのは、ヴェリチャーニノフの視点から見るからである。多少客観的視点にてたば、もう少し違う光景に見えたかもしれない。

そこで一つとびきり奇妙なことがおきる。トルソーツキーが結婚するというのだ。トルソーツキーは禿頭の五十男で、自分自身の財産をそんなに多くもっているわけではない。にもかかわらず、中産階級の家庭からまだ十五歳の少女を妻にすると決めたのだという。ロシアでは、女は十六歳で結婚できることになっているから、彼女との結婚はおかしなことではない、とトルソーツキーはいう。だが、ヴェリチャーニノフにはそうは思えない。これは自分に対する奴のあてこすりだと思うのである。どうだ、おれだってこんな可愛い娘と結婚する能力はあるんだ、ただの寝取られ亭主とは違うんだ、ということを自分に見せつけたいと思っているのではないか。以前のように、俺の新しい女房を寝取ってみるがいい、そう簡単には寝取らせないぞ、そういうトルソーツキーの意地のようなものを、ヴェリチャービノフは感じるのである。

そんな具合に二人の関係はかなりもつれたものだ。そのもつれのようなものを延々と広げて見せようというのが、この小説の表向きの体裁などのである。奇妙なことに、二人は次第に強い友情で結ばれていくのを感じる。その友情は何に根差しているのか。一人の女を共有したという一体感か。つまり穴兄弟としての連帯感か。そのあたりは曖昧な書き方だが。





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