正法眼蔵随聞記第六の評釈

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正法眼蔵随聞記の第六(最後の巻)は、道元の在宋中の出来事を語ることから始める。師の如浄が道元を侍者として弟子たちに紹介したいといい、その際に外国人であるが才能のある人だと紹介するつもりだといった。それを道元は辞退した。その理由は、外国人の自分が侍者になることは、中国に人材が少ないからだと思われかねず、それは自分にとって本意ではなく、恥ずかしいことだと言うのである。こんなことを巻の冒頭に置いたのは、道元の謙虚な性格を強調したいからか。

二は、病気や非器を以て学道に耐えぬ理由とし、身を養い病を助けて一生を終えんとするのは間違いだと説く。「先聖必ずしも金骨にあらず。古人豈に咸く皆上器ならんや」。そんなわけだから、だれでも修行に励むべきである。「今生に若し学道修行せずんば、何れの生にか器量の人となり無病の者と成て学道せんや。只身命を顧りみず発心修行するこそ、学道の最要なれ」というのである。

三は、学道の人は、衣食をむさぼることなかれと説く。そんなことをせずとも、各々の人には食分、命分というものがあって、おのずと何とかなるものなのである。その例として、いったん死んだ僧が生き返った話が紹介される。その僧は閻魔からまだ命分が残っているといわれ娑婆に返されたのであるが、その際、食分はすでにつきていた。そこで閻魔は、それなら蓮の葉を食って生きればよいといった、というような話である。

四は、これも衣食にわずらうなかれと説く。これについては、遠方よりやってきた修行僧の話が紹介される。その修行僧はほとんど無一物で、下等な紙を衣服代わりにしていた。そこで同僚が、家に戻って支度をしてくればよいと言ったところ、「郷里遠方なり、路次の間に光陰を空ふして学道の時を失せんことを憂ふ」といって修行を続けたというのである。

五は、これもやはり、飢えを忍び寒を忍んでひたすら修行すべきと説いたもの。「僧の損ずることは多く富貴より起るなり」というのである。

六は、「聞くべし、見るべし、得るべし」と説くのあるが、その趣旨は、「聞んよりは見るべし、見んよりは得るべし、未だ得ずんば見るべし、未だ見ずんば聞べし」という。「得る」というのは、得道するという意味か。

七は、「学道の用心は只本執を放下すべし」と説く。本執とは、己我に執着すること。己我を捨てて「善知識に随て衆と共に行じて私しなければ自然に道人となるなり」というのである。

八は、「学道の人は後日をまちて行道せんと思ふことなかれ」と説く。後日を待っている間に死んでしまっては何にもならぬというのである。

九は、海中に竜門というところがあって、そこを通る魚はことごとく竜になる。それと同じように、叢林(学堂)に入ればだれもが仏となり祖となる、と説く。仏となるのに修行が必要なのは無論であろう。

十は、「道者の行は善行悪行につき皆おもはくあり。凡人の量る所にあらず」と説く。その例として、慧心僧都が草を食っている鹿を追い払ったことをあげる。それを見た人が、無慈悲だというと、いやそうではない、鹿が人になれないように追い払ったのだ、鹿が人に慣れすぎると、やがて悪意を持った人間に殺されるであろう。それをふせぐために、鹿に人を恐れさせたのだ。そう慧心僧都が言ったというのだが、それは凡人にはなかなかわからぬ配慮であろうというのである。

十一は、人を外見で判断してはならぬ、その実を以て判断すべきと説く。その例として、孔子や宇治の関白の故事があげられる。とくに宇治の関白は、他人が自分に敬意を表するのは、自分の人柄に対してではなく、着ている衣装のためだと言ったということが強調される。

十二は、知ったかぶりはよくないと説く。知ったかぶりをする人は、「道心なく吾我を存ずるゆへなり」というのである。

十三は、無用のものをたくわえるべからずと説く。その例として、唐の太宗が良馬を贈られて返却した話があげられる。良馬に乗っても、従う家臣がいなければ何の役にも立たないからというのが理由だ。

十四は、修行にあたっては、とことん納得するまでよく聞くべしと説く。「問ふべきを問はず、云ふべきを云ずして過しなば、必ず我れが損なるべし」というのである。

十五は、栄西の回想である。建仁寺が困窮していたとき、絹を寄贈されたことがあった。寺あげてそれをよろこび、これで粥を食えると思っているところ、ある者がその絹を欲しいと言ってきた。栄西はその絹を与えた。弟子たちがそれに不服を述べると栄西はこう答えた。「衆僧は面々仏道の志し有て集れり。一日絶食して餓死するとも苦しかるべからず。世に交れる人のさしあたりて事欠る苦悩を扶けたらんは、各の為にも利益すぐれたるべしと云へり」というのである。

十六は、仏祖たちはみな、もともとは凡夫だった、だから自分を愚鈍だと卑下することはないと説く。「今生に発心せずんば何の時を待てか行道すべきや。今強て修せば必ずしも道を得べきなり」というのである。

十七は、「虚襟に非ざれば忠言をいれず」と説く。虚襟は己我を捨てることである。「わづかも己見を存ぜば、師の言ば耳に人ざるなり」。であるから、「真実の得道と云は、従来の身心を放下して只直下に他に随ひゆけば、即まことの道人となるなり。是れ第一の故実なり」と知るべきなのである。






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