寝取られ亭主の悲哀:ドストエフスキー「永遠の夫」

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寝取られ亭主をテーマにした「永遠の夫」は、寝取った側のヴェリチャーニノフの視点から書かれているので、寝取られた側としてのトルソーツキーは、他人の視線の先にある滑稽な人物というような役割に甘んじている。しかし小説のテーマが寝取られ亭主であるかぎりは、彼の言い分を彼の立場に寄り添うようにして聞くのも大事なことだろう。前稿では、小説の語り口にあわせて、ヴェリチャーニノフの視点から分析したものだったが、ここではそれを反転させて、トルソーツキーの視点から分析してみたい。

そもそもトルソーツキーはなぜ、九年前に済んでしまった出来事を蒸し返すようにしてヴェリチャーニノフの前に現れたのか。しかもかれはかなり卑屈なやりかたであらわれたのである。かれをその行動に駆り立てたきっかけは妻の死だった。妻が死ぬとすぐに、トルソーツキーは娘をつれてペテルブルグに出てきて、ヴェリチャーニノフに付きまとうようになったのである。妻が生きている間は、妻の不倫を暴くようなことははばかられたのであろう。それほど妻は彼に対して支配的な影響力をもっていたわけだ。なにしろかれは、妻が間男をしているのを十分認識していながら、そのことで妻を非難することができないでいたのだ。そんなかれを「永遠の夫」と呼んだのはヴェリチャーニノフだが、それは「生涯、ただ夫であることに終始し、それ以上の何物でもないような」存在のことである。それ以上の何物でもない、ということは、「自分の細君のお添物になってしまう」ことだ。何の性格も特徴もたない。ひとつだけ特徴があるとすれば、それは額に角が生えていることだ。

寝取られ亭主のシンボルとして角を連想するのは、ヨーロッパ諸国に共通しているらしい。ラブレーの愉快な小説の中では、頭に角がはえて来るのがいやで、意地でも結婚しない男が出てくるが、角が生えてくる、つまり女房を寝取られることを恐れる気持ちは、ラブレーに限らず、ヨーロッパ文学に共通したモチーフになっている。ロシアといえどもそのモチーフを共有しているということらしい。

だからこそトルソーツキーも、ヴェリチャーニノフに向かって、自分の禿頭に二本指をつきたて、あなたのおかげで角が生えてきましたととぼけてみせるのである。

話が脱線したので、もとに戻そう。女房が死んだことで、トルソーツキーは単なるお添え物であることから脱し、自分なりに自己主張を始める気になったのではないか。だが、すでに終わったことを蒸し返しても、ろくなことはない。しかしそのまま黙っているのも癪に障る。幸か不幸か、トルソーツキーの女房は一人娘を残して死んだ。この娘が自分の子ではなく、不倫相手の子であるとは、いくら鈍感なトルソーツキーでもわかる。かれはその相手、つまり娘の父親がヴェリチャーニノフだと考えている。そこで娘を巧みに利用することで、寝取った男への意趣返しをしてみよう、という気になったのではないか。そのさいに、トルソーツキーは、娘に対する父親らしい気遣いは全くといってよいほどしていない。娘が死んだときにも、葬式にも現れないほどだ。

娘をヴェリチャーニノフに押し付けたことは、それなりの効果を生んだ。ヴェリチャーニノフはすっかり父性本能を刺激されてしまったのだ。そうしたヴェリチャーニノフの脂下がった顔を見ることは、トルソーツキーにとっては気晴らしになったことだろう。ましてその娘が死んだことで、ヴェリチャーニノフは大きな打撃を受けたはずだ。つまりヴェリチャーニノフは自分の妻を寝取ったことの始末をつけさせられたわけで、それがかなっただけでも、トルソーツキーには、ヴェリチャーニノフにまとわりついた甲斐があったということになる。

これだけのことが起きれば、女房を寝取られたことへの意趣返しは一応達成されたと考えるのが普通ではないか。ところがトルソーツキーの意趣返しは止むことがないのである。かれは、恋敵であるヴェリチャーニノフを憎んでいるのではない。むしろ仲良くしたいと願っている。なにしろかれは、自分の田舎の家にヴェリチャーニノフを招待するのだ。その家には、結婚したばかりの新しい妻が一緒に住んでる。トルソーツキーは、ヴェリチャーニノフがその新しい妻も寝取ったらどうかと挑発したりするのである。ここまでくると、トルソーツキーの異常さがくっきりと浮かび上がってくる。トルソーツキーは単に女房を寝取られたことへの意趣返しに夢中になっている男ではなく、寝取られ男であることに一種の快楽を感じている男であるというイメージを喚起する。かれはだから一種のマゾヒストといえなくもない。ふつうのマゾヒストは、身体に虐待を加えられることに快楽を感じるものだが、トルソーツキーの場合には、自分の妻が他人に抱かれることに快楽を感じるようなのである。

ということは、この「永遠の夫」という小説は、マゾヒストの傾向が見てとれる精神病者の物語だと言えるのではないか。ドストエフスキーは精神病質をもった人間を描くのが好きだった。この「永遠の夫」もその例に漏れないということなのであろう。






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