感覚されうるものの非対称的総合:ドルーズ「差異と反復」を読む

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「差異と反復」の第五章は、「感覚されうるものの非対称的総合」と題されているが、実際には、差異と感覚的な所与(ベルグソンが「意識の直接与件」と呼んだもの)との関係について論じる。ドゥルーズによれば、「差異は、所与がそれによって与えられる当のものである。差異は、雑多なものとしての所与がそれによって与えられる当のものである。差異は、現象(与えられるもの)ではなく、現象にこの上なく近い仮想的存在である」。つまり、差異は現象そのものではなく、それを根拠づけるものだというわけである。それをドゥルーズは、別の部分で、差異は現象の充足理由だと言っている。

これは、「感覚されうるもの」つまり、ベルグソンのいう「意識の直接与件」を論じながら、その論じ方はベルグソンとは非対称的である。ベルグソンは、意識の直接与件から出発しながら、それを意識の側で分節することで差異が生じるというふうに解釈していた。意識の直接与件としての感覚されるものが、差異の充足理由なのである。ドゥルーズはそうした解釈を反転させて、感覚されるものが差異の根拠なのではなく、差異こそが感覚されうるものつまり現象の根拠だというのである。

ということは、ドゥルーズは感覚についての西洋哲学の伝統的なスタンスから決定的に離れているということだ。ドゥルーズは西洋の伝統哲学を解体することを自己の使命として自覚していたのであるから、感覚の取り扱い方が伝統的なそれから大きく逸脱するのは不思議なことではないということもできよう。しかし、これはちょっとした逸脱といって片づけられるようなテイのものではない。なぜなら、差異を現象の充足理由とすることは、人間の知的な認識作用をまったく軽視することになるからだ。哲学とは、知を愛することを意味する。知とは、認識作用と異なるものではない。その認識作用のベースとなる分節の働きを軽視あるいは無視することは、知を愛するという哲学の本来のあり方から大きく逸脱するものと言わねばならない。

ドゥルーズがそんなスタンスをとるのは、ニーチェにならって、道徳とか良識といったものを軽蔑するためである。良識は、差異あるいは不等性(不平等)を取り消し、なんでも中間的なものに変化させる。良識は平等とか中庸といったものが好きなのだ。そんな良識をドゥルーズは中産階級のイデオロギーだと言っている。ニーチェなら奴隷の道徳と言うところだろう。ともあれドゥルーズは次のように言うのだ。「良識は、抽象的な所産としての等しさ(平等)の中におのれの所在を認める中産階級のイデオロギーである。良識は、行動を起こすことを望んではいない。それはむしろ、異化=分化の程度の高いものから低いものへ進む行動の自然な中間(媒体)を、つまりそのエレメントを構成すること、これを望んでいるのだ」(財津理訳)。

そんな中産階級のイデオロギーをドゥルーズは、「わたしたちは死の前で平等である」とか、「わたしたちは生の前で機会均等である」といった中産階級好みのスローガンをあげて皮肉っている。

ベルグソンの言う意味での差異(それはまた西洋哲学の伝統にかなってもいる)は、意識の所与に対する分節の働きの結果であって、したがって媒介された知であり、また質によって定義されたものである。知は概念という形をとるが、概念は、それが本質をあらわしているかぎり、質的なものだからだ。ところが、ドゥルーズのいう差異は、そうした媒介作用を拒むものであり、また、質的な定義をも拒む。質的でないとしたら、いったいどんなふうに考えればよいのだ。ドゥルーズは、差異は質にかかわるのではなく、強度あるいは程度にかかわるものだというふうに主張する。強度にしろ程度にしろ量的なものである。つまり差異は、質的な相違ではなく、量的な相違だというのでる。

そこでドゥルーズは、強度についてかなり詳細な議論を展開するのだが、これはちょっと些末すぎるといった印象を受ける。要するに、差異は量的なものであるから、その程度を濃くしたり薄めたりすることができると言いたいようである。差異を薄めて中間的にするのが中産階級の好むところだから、中産階級のイデオロギーである伝統哲学の利害にもかなっていると言いたいのであろう。

だが、ドゥルーズの本意は、差異を批判することではなく、差異を哲学の新たな原理にすることだ。そこでドゥルーズは、差異を、ニーチェの永遠回帰と結びつける。その結び付け方はかなり強引な印象を感じさせるが、要するに、永遠回帰するのは同一性ではなく、差異だと言うことで、差異を新しい哲学の原理にしようというのである。その言い方が、いかにもドゥルーズ的で、ふるっている。かれはこう言うのだ。「永遠回帰は、同一性も類似も等しさもない世界について言われるのだ。永遠回帰とは、異なるものについて言われる同一なものであり、純然たる<齟齬をきたすもの>について言われる類似であり、不等なものについて言われる等しいものであり、すべての距離について言われる近さである」。

この章の最後の部分でドゥウーズは、死について簡単に触れている。ドゥルーズによれば、死には経験的な意味での死と、先験的に人間に組み込まれた本能としての死があるという。本能としての死とは、フロイトの「死の本能」を踏まえているのだろう。死にたいという傾向のようなものである。そうした人間性に内在的な死と、経験的な死とは根本的に違うとドゥルーズは言う。「経験的な出来事としての死と、『本能』としての、あるいは先験的な審廷としての死との、必然的な不一致が存在する」と言うのである。






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