礼拝得髄 正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第二十八は「礼拝得髄」の巻。礼拝得髄とは、礼拝して髄を得るということだが、これは禅宗の二祖慧可の斷臂得髓の故事にもとづく。善き師を求めることの大事さを説いたものである。慧可が達磨を礼拝し、かつ斷臂して髄を得たように、我々修行者も師を礼拝して髄を得るべきだというのである。髄とは神髄のことで、仏教の神髄すなわちさとりの境地をいう。

この巻は修行の導き手である善知識を得ることの大事さを説いたものである。そのことを冒頭で言っている、「修行阿耨多羅三藐三菩提の時節には、導師をうることもともかたし。その導師は、男女等の相にあらず、大丈夫なるべし」。要点は、導師は男女によって区別すべきではなく、真に仏性を体現したものたるべしというところにある。

また、導師は氏素性によって区別すべきではなく、外見によって区別すべきでもないという。それについては釈迦も次のように言っている。「釋牟尼佛のいはく、無上菩提を演する師にあはんには、種姓を觀ずることなかれ、容顔をみることなかれ、非をきらふことなかれ、行をかんがふることなかれ。ただ般若を尊重するがゆゑに、日日に百千兩の金を食せしむべし」。外見によって判断するのではなく、般若すなわち智慧を体現しているかどうかで判断すべきだというのである。

年齢によって判断してもいけない。年老いていても愚かなものはいるし、年若くして智慧を体得したものもいる。「たとひ七歳なりとも、われよりも勝ならば、われ、かれにとふべし。たとひ百歳なりとも、われよりも劣ならば、われ、かれををしふべし」。

もっとも重要なのは、女性蔑視が間違っているということである。この巻の大部分は、女性の修行者すなわち比丘尼に優れた修行者がおり、その比丘尼を正しく評価すべきだとする主張に費やされている。志閑禪師が末山尼了然を禮拜求法したこと、妙信尼が十七僧を為道したことを例にあげた後、「住持および半座の職むなしからんときは、比丘尼の得法せらんをすべし。比丘の高年宿老なりとも、得法せざらん、なにの要かあらん。爲衆の主人、かならず明眼によるべし」と結論付けている。

そのうえで、「正法眼藏を傳持せらん比丘尼は、四果支佛および三賢十聖もきたりて禮拜問法せんに、比丘尼この禮拜をうくべし。男兒なにをもてか貴ならん・・・男女を論ずることなかれ。これ佛道極妙の法則なり」と強調している。仏道に男女の差別はないというのである。こうした男女平等思想は道元の大きな特徴といえよう。

この巻の本文の結びは、男女平等を重ねて強調したものである。「佛法の道理いまだゆめにもみざらんは、たとひ百歳なる老比丘なりとも、得法の男女におよぶべきにあらず。うやまふべからず。ただ賓主の禮のみなり。佛法を修行し、佛法を道取せんは、たとひ七歳の女流なりとも、すなはち四衆の導師なり、衆生の慈父なり。たとへば龍女成佛のごとし。供養恭敬せんこと、佛如來にひとしかるべし。これすなはち佛道の古儀なり。しらず、單傳せざらんは、あはれむべし」。

この巻には、付録があり、それが岩波文庫版に収録されている。七十五巻の諸本にはいづれにも載っておらず、永平寺につたわる秘蔵本から見つかったものという。内容は、すぐれた比丘尼は普通の比丘に勝るということを強調するものである。あわせて女人禁制の結界など、寺院の悪しき慣習を批判する。






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