ドストエフスキー「未成年」を読む

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ドストエフスキーの小説「未成年」は、いわゆる五代長編小説のうち四番目の作品である。「悪霊」と「カラマーゾフの兄弟」の間に位置する。ドストエフスキー研究で知られる寺田透はこの小説を、ドストエフスキーの第二の処女作と言っている。どういうつもりでそう言ったのか。処女作というと、その後の作品世界にとっての手がかりを示したものということになる。もしこの小説を処女作と言うならば、それを手掛かりとした作品は、「作家の日記」を別におけば、「カラマーゾフの兄弟」ということになる。だが、「カラマーゾフの兄弟」が「未成年」から生まれたとはなかなか考えがたいのではないか。

「未成年」はむしろ「悪霊」との関連において論じるのが理にかなっているのではないか。その関連において重視すべきは二つある。一つは語り口であり、もう一つは人物像である。語り口については、「悪霊」では基本的には小説の一登場人物の語りという体裁をとりながら、それがいつの間にか第三者の語りと混交するというような不思議なスタイルをとっていた。小説の構成にある程度の客観性を持たせようとする配慮がそうさせたのだと思う。それは読み手にとって、筋の進行がわかりやすくなるという効果をもたらした反面、なにか作り物めいたしらじらしさを感じさせないでもなかった。そのしらじらしさについて反省したのか、ドストエフスキーはこの「未成年」では、完全な一人称のスタイルに徹している。そのことで、小説の構成は厳密でかつシンプルなものになった。だがそのかわりに、客観的な描写を犠牲にせねばならなかった。この小説は完全な一人称で進行するので、語り手の意識に現れたもの以外は語られないのである。しかもその語り手は、未成年であって、したがって人間として未熟である。その未熟な人間の意識にのぼったことだけが語られるので、語り方は稚拙にもなり、また感情的になったり、誤解も多かったりする。そういう語り方は、語り手の個人的な心理的事実を語るには適しているが、複雑な事態を描写するには適していない。それをあえてドストエフスキーが行ったのはどういう理由からか、ということが問題となる。

人物像については、「悪霊」に登場するのは、ロシアに現れつつあった新しい世代の若者たちが中心である。かれらは、ナロードニキであったり、無政府主義者であったり、社会主義者であったりする。そんな若者たちにドストエフスキー自身は批判的である。それゆえ、語り手を通じてそういう思想を批判させたり、また、ロシア主義を主張させたりする。そんなわけで「悪霊」という小説は、きわめて政治的なメッセージを含んでいる。それに対して、「未成年」に出て来る人物像は、基本的には利己的な人間ばかりで、政治的な野心はほとんど感じさせない。ワーシャという人物や、かれの関係する若者たちが登場し、政治的な議論をする場面もあるが、かれらのそうした行いはあくまでも刺身のツマのような扱いであり、小説の前景になることは一度もない。その点は、「悪霊」と「未成年」とは、まったく違う世界を描いているといってよい。「悪霊」は、新しい世代のロシアの若者たちの政治的な行動をテーマとし、「未成年」のほうは、利己的な人間たちが繰り広げる世間話のようなものがテーマになっている。

世間話といったが、この小説にはたいした筋書きはないのである。一応クライマックスはあり、それに向かって様々な事態が展開していくという体裁にはなっているが、そのクライマックスというのが、基本的には金をめぐるごたごたなのである。この小説は、ソコーリスキー老侯爵の遺産をめぐる争いが基本的なテーマなのだ。それに主人公の父親ヴェルシーロフの狂気だとか、カテリーナ・ニコラーエヴナとアンナ・アンドレーエヴナの確執とかがからんでくるが、それらはサブプロットいってよく、メーンプロットは遺産つまり金をめぐるごたごたなのである。ドストエフスキーの小説としては、めずらしく世俗的な内容である。

この小説の語り手は、アルカージー・マカーロヴィッチという未成年者で、かれが一年余りの間に体験した出来事を回想するという体裁をとっている。小説はそのアルカージーの回想録(本人は記録とか手記と呼んでいる)なのである。その回想録を語り手は一年前の九月十九日を起点にして書いたと言っているが、その九月十九日というのは、クラフトという若者から書類を受け取った日で、その書類というのが、老侯爵の遺産にまつわることが書かれていることからも、この小説が遺産相続争いをテーマにしたものだということができるのである。

遺産相続は、昔のロシア人にとっては深刻な問題で、したがって大きな関心の的ではありえたかもしれぬが、偉大な小説のテーマとしてはいかにもこまごましい印象を与える。そこで、ヴェルシーロフの狂気だとか、彼とカテリーナ・ニコラーエヴナとの不思議な愛憎関係とか、語り手のアルカージーとヴェルシーロフやそのほかの家族との関係とか、老侯爵をとりまく人間模様とか、幼馴染でならずもののランベルトとか、ワーシンを中心とした新しい青年たちとか、ドストエフスキーが大好きな不幸な女とかを登場させて、小説の展開に色を添えてはいる。だが、それらはあくまでサブプロット扱いであり、メーンプロットは老侯爵をめぐる遺産争奪の争いなのである。

第一、語り手のアルカージー自身が、遺産相続の行方を左右する重要な文書に始終こだわっているのである。この小説はそのアルカージーの意識のなかにあらわれたものだけを記録するという体裁をとっているので、そのアルカージーが遺産相続の行方に関心を集中しているかぎり、そのことが小説のメーンテーマであり続けるわけだ。

そんなわけで、この小説は、アルカージー・マカーロヴィッチの意識の範囲を展開の場としている。かれの意識にうつった世界を、多少の解釈を交えながら記録するという体裁をとっている。その結果、描写は極めて主観的にならざるをえないし、解釈の中には誤解も含まれているようなので、どれが事実でどれが誤解なのか、客観的に判断するすべがない。事実の判断基準がないのであるから、読者は語り手の言っていることを、眉につばしながら受け取らねばなるまい。「悪霊」の場合には、事実を自然に見せるための工夫として、ときたま第三者的な描写が行われ、それが事実の展開に自然なイメージを付与するのであるが、「未成年」には、そうした工夫は一切なく、あくまでもアルカージーの体験したことを聞かされる。それゆえ、語りの内容にはかなりな混乱も生じる。その混乱をドストエフスキーは楽しんでいるフシがある。






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