反復と永遠回帰:ドゥルーズ「差異と反復」を読む

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ドゥルーズは、西洋の伝統思想である形而上学を根本的に批判し、それを解体したうえで、全く新しい思想の原理を提示しようとする。それは自分自身の反復の思想を、ニーチェの永遠回帰の思想と融合させたものだ。永遠回帰としての反復というべきものが、ドゥルーズの掲げる新しい哲学の原理なのである。とはいっても、ドゥルーズの解釈するニーチェの永遠回帰は、ニーチェ本人が考えていた永遠回帰とはかならずしも一致しない。ドゥルーズは、自分自身の反復についての考えを、ニーチェの永遠回帰に無理に接合しようとして、永遠回帰の思想的な含意をゆがめて捉えなおしているフシが見える。もっともそれが悪いというわけではない。先人の思想の読み替えは、哲学の歴史ではめずらしいことではない。むしろ読み替えによって、思想が新たな命を吹きこまれることもある。

ニーチェの永遠回帰とは、本来どのようなものであったか。この言葉について、ニーチェは明快な説明をしているわけではない。この言葉が語られるのは主に「ツァラトゥストラ」においてであるが、ツァラトゥツトラ自体は哲学的な思想というよりは、文学的な作品であって、その語り口は隠喩的なものである。とくに永遠回帰について語るときには、そうした隠喩的な語り方になる。それでもニーチェがこの言葉によって何を言いたかったかについては、漠然とながら伝わってくる。それは、ギリシャ的・キリスト教的な時間概念の否定ということである。そうした時間概念の否定を通じて、ギリシャ的・キリスト教的な色彩を強くおびた西洋の伝統哲学全体を否定しようとする意気込みが、この永遠回帰という言葉からは伝わってくるのである。

ギリシャ的・キリスト教的時間概念の特徴をニーチェは、直線的であることと有限であることに求めた。直線的とは、時間は過去から現在を経て未来に向けて、直線的に進んでいくということである。有限であるとは、時間には始まりがあり、終りがあるということである。時間の有限性については、キリスト教が特に強調するところであり、神が世界を作った時から時間は始まり、最後の審判がなされた時を以て世界は終わり、かつ時間も終わると考えられた。ニーチェはそうした考えに反対して、時間は直線的に進行するのではなく円環的に循環すると考え、また、時間は永遠に循環するのだと考えるのである。その永遠の循環をニーチェは永遠回帰と名付けた。

永遠回帰という場合、何かが回帰することが想定されるわけであるが、その「何か」についてニーチェは特に指示しているわけではない。同じものが際限もなく繰り返されるというふうにも受け取れるし、現在あることは過去にもあったというふうに受け取れもする。非常に曖昧な言葉なのである。曖昧ではあるが、ギリシャ的・キリスト教的な時間観念とは根本的に異なっている。ニーチェにとってはとりあえず、ギリシャ的・キリスト教的な時間概念と異なる時間概念を提示することで、西洋の伝統的な時間観念とその上に成り立っている形而上学に攻撃を加えられれば、所期の目的を達することになると考えていたようである。

ところがドゥルーズは、永遠回帰を、かれ独自の概念である反復によって基礎づけようとする。かれの言う反復とは、同一物の繰り返しではなく、差異の反復である。差異が差異のままに反復すること、それがかれのいう本当の反復である。その反復が永遠に繰り返される、それをドゥルーズは永遠回帰と呼ぶ。そういうわけで、ドルーズが解釈した永遠回帰は、ドゥルーズ独自の永遠回帰といってもよい。ニーチェの言う永遠回帰を、そのまま生かしながら利用しているわけではない。そのことはドゥルーズ本人も自覚していて、「ニーチェが永遠回帰の解説を与えなかったということ、これをわたしたちはいくつかの理由に基づいて了解している」(財津理訳)と言っている。ニーチェ自身が解説を与えていないので、自分なりにそれを解釈したというわけである。

ドゥルーズの解釈するところの永遠回帰とは、とりあえずは、同一物の還帰ではないと言われる。<同一的な>ものは還帰しない。では何が還帰するのか。「ひとり肯定だけが、すなわち<異なる>もの、<非相似的な>ものだけが還帰する」とドゥルーズは言う。異なるもの、非相似的なものとは、差異のことである。その差異を肯定するのが永遠回帰なのである。「永遠回帰は差異を肯定する。永遠回帰は、非類似と齟齬をきたすものとを、偶然を、多様なものと生成とを肯定する」。要するに、永遠回帰とは生成の原理なのであり、その点で、差異の反復と同じものである。差異の思想はドゥルーズ独自のものだが、それの反復と永遠回帰とは、ドルーズにおいては同じことがらを別の言葉であらわしたものと受け止めることができよう。

否定はキリスト教的な原理である。キリスト教は否定を通じて肯定する。それに対してドゥルーズは、肯定をそのままに肯定する。肯定は生成と創造の原理である。ドゥルーズが目指したのは、創造と生成の哲学なのだとわかる。それはまたニーチェの目指したものでもあったから、ドゥルーズは自分を、ニーチェの徒として意識できたのであろう。






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